明日のエネルギーと環境

1.        緒言

アルフォンス・ドーデー(1840〜1897)がエネルギー問題をテーマにした小説を書いている、と言うと驚かれるかもしれない。けれども“風車小舎だより”という短編集に収められた、“コルニーユ親方の秘密”という話(1)には、現在我々が直面しているエネルギー問題の真髄がみごとに描き出されているように思う。

南フランスのプロヴァンス地方では、ローヌ河に沿って吹く強い風を利用して、丘という丘の上には風車が回っていて、近隣の農家は皆んな、麦をそこへ運んで挽いてもらっていた。コルニーユ親方は、60年間もそんな風車場のひとつを守って仕事をやって来たけれども、あいにく、「いやなパリのやつら」が蒸気の製粉所を村の近くに建ててしまった。コルニーユ親方は「蒸気なんぞ悪魔の考えたものじゃァありませんか、風は神様のおはきになる息ですぞ」などと言って村人を説得しようとした。けれども、「新しかろう、よかろう!」ということで、皆は麦を蒸気製粉工場に持って行くことになって、どの風車場も仕事が無くなって、風車も取り壊されていった。そんな中でコルニーユ親方の風車だけは、相変わらず回りつづけているので、皆が不思議に思っていた。ところが、とうとうある時に、それが親方のヤセ我慢で、長年大切にして来た風車可愛さから、麦もないのに親方が、それを皆に隠してカラ回りさせていたことが判ってしまった。同情した村人は、それ以後は親方の仕事に不足がないように、麦をこの風車場に運んであげたけれども、ある朝、親方が死んで、それ以後は本当に風車は止まってしまった。ドーデーは、「この世の中すべてのものには、終わりというものがあるんですね、・・・風車というものの時代も、もう過ぎ去ったものと考えるのが、ほんとでしょうね」と、この話を結んでいる。

この短編集の出版とほとんど同時期(1865)にイギリスの経済学者ジェボンズは“石炭問題”という本を出している(2)。「いやなパリのやつら」だけでなく、イギリスでもドイツでも、そしてアメリカでも、石炭をどんどん燃やして、蒸気機関によって動力を得て工業活動を活発にやり始めると、資源として限度のある石炭を使い果たしたら一体どうなるのか? と当時の学者達が心配し始めている事が、この本の始めに紹介されている。ジェボンズも、石炭資源が再生可能でない事と、石炭による蒸気機関利用の便利さを享受したい、という経済的問題の両立に悩んでいる。そして結局、石炭の利用によるイギリスの工業的(それに伴う経済的)優位を今のうちに大いに発揮して、世界の文化の発展に重要な貢献をしたら良い、そして石炭が枯渇したら元のおとなしい、質素なイギリス国民に戻るのだと結論した。

少し時代が下がって、熱力学の確立に貢献したクラウジウスは、“自然の中のエネルギー貯蔵量とその人類の利益のための利用”という本(3)を書いている(1885)。クラウジウスはエントロピーを定義した人であり、エネルギーの性質を完全に理解した最初の人々のひとりだが、先進諸国が、枯渇性の資源である(再生不可能な)石炭を使い、蒸気機関によって、鉄道、船その他の工場などを動かしている有様を心配して、「人類は、科学が如何に進歩したとしても、新しいエネルギーを創出することは出来ないのだから、結局は太陽が放射し続けるエネルギーによって、何とかやっていくように運命づけられているのだ」と書いている。少し、時代が下ると(1896)、電離説でノーベル化学賞を得たアレニウスが、“空気中の炭酸ガスの地上温度への影響”という論文を書いて(4)、石炭燃焼により炭酸ガスの大気中濃度が3倍になると、気温が8℃上昇するだろうと推測している。

今、我々は、石炭だけでなく、石油、天然ガス、原子力というエネルギーを利用して、およそドーデーの時代の人々には想像も出来なかったであろう「豊かな」生活をしている。その今、我々は、ドーデーがコルニーユ親方の口を借りて言わせた「悪魔の考えた」エネルギーの利用方法を平気で享受する根拠を持っているのだろうか? プロヴァンス地方の風車が廃たれてから約150年経った今、風力発電がテレビに登場して話題に上るとは、ドーデーは夢想もしなかったろう。「世の中のすべてのものには終わりがある・・・」というドーデーの結論は、クラウジウスの示した「世界のエントロピーは極大に向かう(世界は熱的な死、という最終状態に一方的に向かっている)」という原理に沿った、正しい考えだけれども、それでは、「悪魔の考えた」エネルギーの利用にも終わりが来るのだろうか?

現在の豊かな社会に生きていながら、少し物事を深く考える人なら誰しも、これで良いのだ、とは思っていない。それどころか、多くの人々は、歴史上かつて無い豊かで、安全な、ゆとりのある生活の中にありながら、歴史上かつて無い不安感の中にいる。コルニーユ親方の時代であれば、労働はきつく、飢えや寒さも、多くの人を悩ませただろうが、風は必ず吹いて風車を回してくれるので、つつましやかに暮らしていれば、人類の将来の心配はなかった。歴史上かつて無い不安感の根源はそこにある。明日の食糧を確保できるか、という悩みが無くなった替わりに、100年後に人類が生き伸びていられるか、とか、1000年後には人類は絶滅しているのではないか、という予測が、真実味を持って感ぜられる理由は、とりも直さず、我々が、確固とした根拠なしに「あまりにも」ぜいたくな生活をしていることによっている。

これからの100年、などと言う予測や心配などしないで、今、目の前にあるエネルギーの利用や開発にのみ目を向けている事も出来よう。先のことは何とかなる、という物の考え方も、その気持は判るけれども、「そのような、願望に根ざした態度を取るべきではない」と先述したジェボンズも書いている。彼はその著書の序文に、「将来のことは、いくら頑張っても、ぼんやり、と推測することしか出来ない。けれども、子孫のことに配慮する者であれば誰しも、今、手にしている知識と行動原理(guiding principle)の上に立って将来の見通しを立てなければならない、と感ずるはずだ」と述べている。

まず、我々が地球上で、どのようなエネルギー事情の下にあるのかを見ることから始めて、エネルギーを使うという事は、何を意味しているのか、そして、我々は一体何を求めているのかを考えて、これからの行動の指針を探ってみよう。

 

2.地球のエネルギー事情

2.1 地球の温度

我々の住んでいる地球上でのエネルギーの流れと、それに関する人間の関わり方を考えるために、地球の温度がどのようにして一定に保たれているのかを考えて見よう。太陽はその中心近くで起こっている核融合反応で発生したエネルギーを表面(その温度は約5730K)から光エネルギーとして宇宙に放射している。そのうちで、地球に届く太陽エネルギーの約30%はすぐに地球から反射され、実際に地球が受取るエネルギーは約1kW/mとなっている(5)。受取ったエネルギーと放出したエネルギーが同量でなければ、地球はどんどん冷めるか熱くなるかするだろう。エネルギーのバランスを条件にして、物体が放射する光エネルギーの量が、ステファン・ボルツマンの法則により表面温度の4乗に比例することから計算すると、地球表面温度は、約250Kすなわち−20℃程度でなければならない事になる。

 −20℃というのは、宇宙から見た地球の温度であって、我々は地上で、平均15℃程度の心地よい気温の下で暮らしている。そのように気持ちよく暮らせる理由は、大気という毛布を我々が、かぶっているおかげであって、この毛布は太陽から来る高エネルギーの光は通しやすいけれども、地表から放射する低エネルギーの光は通し難いので、エネルギーをせき止めている。注意したいことは、エネルギーがせき止められてはいても、毛布の中へ入ってくるエネルギーと出て行くエネルギーの量が等しいという点である。今、問題視されている地球温暖化とは、この「毛布」の効果を持つCO2CH4が増加すること、つまり「毛布」が厚くなって地表が「熱く」なり過ぎることを言っている。

次に人間が利用している、あるいは利用できるエネルギーの種類とその性質を、分類して見よう。

 

2.2 熱エネルギーの性質

前述の通り、地球は太陽エネルギーを、受け取ったと同じ量だけ宇宙に放射しているので、このエネルギーは地球上には、ほとんど残りもしないし、地球上のエネルギーは減りもしない。それでは我々の生活は如何にして支えられているのかを考えるために、エネルギーの性質を簡単に振り返って見よう。

エネルギーの性質の基本を、端的に表現してくれているのが、熱力学の三法則と呼ばれるものである。それらは次のように表現される。

. 世界のエネルギーは一定(エネルギー保存)。

. 世界のエントロピーは極大に向う(エントロピー増加、変化の不可逆性)。

. 0°Kでエントロピーは零(ネルンストの熱定理)。

これらの法則のうち、1と2とは、我々がエネルギーを利用するときに、エネルギーの多い少ないとか、有効に使ったか否か、など比較上の問題に関与している。第3法則は、0°Kという基準が、エネルギーとエントロピーの絶対量を問題にする場合には必要となる事を示している。

これらの基本法則にもとづくことによって、エネルギーの利用に際しての、熱エネルギーの特別な性質を理解することができる。すなわち、熱以外のエネルギー例えば、運動エネルギーや電気エネルギー、化学結合のエネルギーなどは、原理的には相互に100%変換できる。またそれらのエネルギーが熱に変化する時にも、もちろん100%変換することができる。ところが、熱エネルギーを他のエネルギーに変換するとなると、一定温度で熱を切り取って、その全量を(他のエネルギー)に変換し続けることは不可能であって、必ず高温熱源Tと、低温熱源Tの備わった熱機関と呼ばれるメカニズムが必要となる。そして、変換の最大効率には、η=(T)/TH 、という制約があり、カルノー効率と呼ばれる。カルノー効率は、すぐに判るように、TとTとが近い程、すなわち温度差の小さい程、その熱機関は効率が悪く、熱エネルギーを他のエネルギーに有効に変換できないことを示している。エントロピーという言葉で言うと、同じ量のエネルギーは、温度の高いときエントロピーが小さく、温度が低ければエントロピーが大きい。温度が下がる時のエントロピー増大を上手く利用して、熱を他のエネルギーに変換できる限度が、カルノー効率により示されている。

 

 

2.3 エネルギー「利用」の意味するもの

太陽からやって来る光エネルギーは、前述のように地球の大地や空気を暖めて、結局、平均して15℃程度の熱エネルギーとして地球は受け取っている。地球から放射する光は、宇宙から見た地球の温度約−20℃で起るので、この2っの温度が、地球を熱機関として見たときに、先に示したカルノー効率の式のTHTLにあたることになる。すなわちその効率は、η=0.12となる。つまり、地球が受け取る全太陽エネルギーの内、最大12%程度が雨や風を起こすなど地球上の自然の活動に使われ得る。太陽エネルギーの量は膨大なものであって、このエネルギーでさえ、人間が使用する全エネルギーの千倍以上にあたる。すなわち水力や風力による発電は、自然の熱機関による仕事の「おこぼれ」を頂いている事になる。

我々が、少しでも太陽エネルギーを「有効」に利用しようとするには、太陽光を集光して千度を超える程の高温を作り、常温との間でカルノー効率の高い熱機関を作動させるか、太陽電池を使って光を直接電気に変換するなどの工夫がなされる。また、植物の光合成は太陽エネルギーを化学エネルギーに直接変換しているので、太陽熱の熱機関による利用ではない。それらの方法で得た電気エネルギーも、化学エネルギーも、それを使って車を走らせたり、火を焚いたりすれば、結局空気を暖めることになって、その空気が冷えていくと、先述の15℃と−20℃の間の熱の流れの一部になって、太陽からのエネルギーの受け取りと、地球から宇宙へのエネルギー放出の、エネルギー収支の釣合いを乱すことにはならない。そして地球上では、エントロピーの増大が継続的に起こっているけれども、−20℃まで温度が下り、エントロピーの大きくなった熱エネルギーを、どんどん宇宙に放出しているので、地球上のエントロピーが増えることもない。地球上では、結局、我々人間も、他の動物、植物も、山や川などの自然物も、太陽光の持ち込むエネルギーを「利用」はするけれども、エネルギー、エントロピーともに増減がなく、地球上には実質上何も残らずに通り過ぎる。

では、我々の活動は何なのか、何が「変化」として地球上に残るのか、と考えるのは興味深い事であろう。人間にとっては、それは人の記憶や、それをまとめた歴史などであろう。つまり形而下のものであるエネルギーの利用の結果が、形而上のものである人間の文化になった事になる。人間を含む生物全体として見れば、それは進化であろう。生物の進化はDNAにその歴史が刻まれているとすれば、それは、言葉に等しいものだから、30億年を超えて、地球上を通り過ぎたエネルギー、エントロピーの流れが、形而上のものであるメッセージとして残された事になる。山や川などの自然物でさえ、地質学者が、地層に残された過去の堆積物をメッセージとして読むならば、それはやはり形而上の事柄となろう。

形而上のものである言葉は、読む者、すなわち人間がいなければ全く意味を持たない。ノーベル文学賞を受けたインドの詩人タゴールが、アインシュタインと1930年に対話した時に、「人間がいなければ世界はない」と云ってアインシュタインを驚かせているが(6)、これが今も有名な会話として、よく参照される事実は、人々が形而下の世界、すなわち、物理的にはエネルギー、エントロピーの支配する世の中、そして社会的にはお金、すなわち経済の支配する世の中に住みながら、人間の生きる意味は形而上のところにある事に、ときどきながらも、気付いているためではないだろうか。

 

2.4 化石エネルギー、原子力エネルギー

太陽から入射するエネルギーと地球が宇宙に放射するエネルギーとは収支が釣り合っていると、以上で述べてきたが、実は入射エネルギーの僅かの部分は地球の長い歴史の中で地表に貯えられている。石油、石炭、天然ガス、などの化石エネルギーがそれである。その総量は太陽エネルギーの入射量に比較すれば、僅かだと言うものの、それでも地球が受け取る太陽光の全エネルギーの数日分は貯まっているとされている。その貯えは数億年という年月をかけて生物(植物)が光エネルギーを利用して形作ってきた。また、それらの化石エネルギーだけでなく、石灰岩として地殻に埋められている750兆トンとも見積もられる莫大な炭素も太陽エネルギーの貯蓄のひとつに入る。その結果、原始地球の大気はCO2が約30%もあったのに、今はそれが0.03%程に減り、替わりに約21%のOが存在している。せっかく地下に、自然が何億年という時間をかけて、人間の害にならないように埋蔵した炭素を、数10年の間に掘り起こして利用すれば、自然環境は人間がまだ存在しなかった昔の地球の状態に近づくだろう。それは人間にとって著しく住み難い環境になることは明らかである。

核分裂により原子力エネルギーを生み出すウラニウム235は、地球が形成されるより以前に生成したもので、自然の状態にあれば、α線を放出して約7億年という長い半減期を経て鉛に変化する。これに中性子が当たることにより核分裂を起こさせてエネルギーを取り出すと共に、更に核分裂を起こし得るプルトニウム等を生成させることは、自然のエネルギー循環の仕組みの中では、ほとんど起こらない現象である。

化石エネルギーも原子力エネルギーも、その使用は自然のエネルギー循環に加えて地表にエネルギーを放出することになる。しかし、現在人類が使用しているエネルギーは太陽エネルギーが地表へ到達する量(約1kW/F)の約0.01%程度なので、その量だけから見ると自然のエネルギー循環への影響は小さいと見なすことが出来る。つまり、余分のエネルギーにより地球が暖まるとしても、地球から放射するエネルギーの量は、先に述べたように温度の4乗に比例するので、わずかの温度上昇で済むだろう。問題となるのは、自然の循環の中に持ち込まれる余分のエネルギーの量そのものよりも、エネルギー利用に伴って起こる事柄であり、それらのうち、とくにCO2の大気中濃度増加と放射性物質の生成は現実問題として、対応を我々は迫られている。

つまり、地質学的な長い年月の間にエネルギーの蓄積に伴って、人間の生活に対して無害化した物質の状態が、再び有害な状態に解き放たれる事が問題となって来る。比喩的に表現すれば、物理的、化学的に整理整頓されて、エントロピーの小さくなった物質を、再び乱雑に地表にバラまいてエントロピーを増大させることになる、とも言える。アレニウスがCO2の温室効果の論文を書いた1900年当時に約300ppmだったCO2濃度は、今すでに約360ppmにまで増加している。CO2の地球温暖化効果については疑問視する説もあるが、たった100年程度でCO2濃度が約20%も増加する事は、一般的な地球環境変化の地質学的な速さに比較すると著しく異常である事は間違いない。

原子力エネルギーは、使用済み燃料や放射性廃棄物の管理と、原子炉の不慮の事故の可能性に問題がある。何十億年という長い時間をかけてようやく沈静化したウランなどによる自然放射能を、人工的核分裂によって再び活性化して良いのだろうか。廃棄物は種類によっては、放射能のレベルが安全と見なせるまで数千年から数万年にわたって管理しなければならない。すなわち、今後何十年、何百年と、原子炉を使い続けたときに、廃棄物はどんどん増える。今でさえ管理貯蔵場所がなくて困っているのに、それに応じて何十倍、何百倍の管理貯蔵場所が必要となる。また、人間が作り、人間が動かすものである原子炉の事故は必ず起こる。最も激しい事故が起こったとしても、人類はその事のみで亡びはしないだろうが地域的には大いに困る。

 

3.リスクを認識して判断を下すこと

ロシアの作家チエーホフの小説には「安易な生活は、清らかであり得ない」という、よく知られた言葉がある(7)。いま日本では、原子炉1基で発電できる分量にほぼ相当する電力(約80億kWh/年)を使って、全国津々浦々に自動販売機が設置されている。しかし、使い捨てのペットボトル入りの「高原の水」を、欲しい時に即刻入手できる便利な生活をする必要があるのだろうか。

他方、すべての生産力を戦争に注入することが強制されていた、太平洋戦争中の標語「ぜいたくは敵だ!」というポスターの「敵」の前に「素」を入れて、「ぜいたくは素敵だ!」と書き替えた女子学生工員がいた、という話は何度聞かされても、心から納得できる。人の望みの喜びは何か、と聞かれたとき、深く考えなければ、豊かな、ゆとりのある、安心な生活という事が心に浮かぶ。

結局、「神様の息」だけにたよって生きるべき運命にある人間は、「悪魔の考えた蒸気」を使うぜいたくも止められない、という宿命をも背負っているらしい。我々が、今、勇気をもって直視すべき点は正にここにある。我々の、今エンジョイしている安易な生活は、化石エネルギーや原子力エネルギーの利用のおかげであるが、実はそれらのエネルギー利用には、前節で述べたような大きなリスクが伴うことを認識しなければならない。

「神様の息」にたよるか、「悪魔の考えた蒸気」にすがるか、という選択は、産業革命以来、なしくずしに、後者に傾き続けて来た。今、我々は、ジェボンズが著書の最終ページに書いた、「そのような状態は物理的に維持不可能である」という言葉が、地球環境の面から現実的に露わになり始めた時期にさし掛かっている。リスクを恐れて、ちぢこまった生活に戻るか、リスクを承知で安易な生活を続けるか、そのどちらを選択して行くのか、それをはっきりと認識する事こそ、今我々にとって最も大切な事柄といえる。安易な生活が、リスクなしで、例えば技術の力で、続けられるという幻想を持ったり、持とうとしたりする事は最も良くない事である。それこそ、ドイツの哲学者ハイデッガーが、技術の危険性に対して述べた「忘却の忘却が最も危険である」(8)という至言に示される原理だろう。リスクを「承知」で、安逸をむさぼるうちに、リスクは無い、と皆が思い始める事が、「忘却の忘却」であり、それは、リスクを現実のものとする危険性につながる。

 

 

4.我々の目的とするものは何か

リスクの認識の上に立って、行動の方針を判断する場合には、まず我々が目標とするものを明確にイメージする必要がある。すなわち、先述したように、結局、物(エネルギー、エントロピー)は一切何も残らないのに、今我々は何を営々(あくせく)と頑張っているのかを振り返ってみなければならない。人が何を求めるのかを知ろうとすることは、人間に本来備わった性質、すなわち本性(ほんせい)を知ろうとすることになる。人間の本性を論じた本として知られるヒュームの“人間本性論”やラヴジョイの“人間本性考”を読むと、人間の行動の駆動力や動機の基は、前者は「共感(シンパシー)」であるとし、後者は「高慢さ(プライド)」であると見ている。また、アダム・スミスは、人は己の利益を目指して行動する時に最大の能力を発揮する、という見方で、道徳も経済も論じている。時代をずっと遡ると、孟子やプラトンは、人間は他の人を助けずにはいられない、善の性質(性善説)が本性であると見ているのに対して、荀子やアリストテレスは、人は本性として己の利を大切にするから(性悪説)、それが野放しにならないよう統制する必要があると説いている。

このような、人間の本性の様々な見方に立って、古来、何百冊という本が、人間の目的としての、幸福とは何か、について書かれている。それらの本に書かれている事柄を調べていくと、人々は、豊かさ、ゆとり、安心を、求めて頑張るものではあるけれども、決してそれらを達成した状態が幸福では無いと、くり返し結論されて来ている(9)。人の幸福はむしろ、悲しみや苦しみを克服することや、あるいは、悲しみや苦しみそのものの中にあってさえ、大きな幸せがある、と説かれた本を読むと、深く考えさせられ、そこに前節で触れた問題の解が見えて来るように思える(図2)。

人は、立っているよりも座っている方が楽だし、寝ていれば更に筋肉の負担は少ない。けれども、一週間も寝ていれば、筋力はおとろえて、身体的には、はなはだ不都合な、すなわちアンハッピーな状態となる。同じく、安易な生活にひたることは、決して精神的な健全性をもたらさない。そう見ると先述の幸福についての見方が理解しやすい。すなわち、人は身体的にも精神的にもストレスの下でこそ幸せでいられるという、少し考えると当然の結論が、多くの幸福についての本に書かれていると理解できる。この見方を基本にして、次に問題の具体的解について考えてみよう。

 

. 具体的な方策

 豊かであることが幸福とイコールではない、という先述の考え方に沿えば、エネルギーを大量消費することの良くない点は、それによって環境が汚染される事だけではなく、それによって安易な生活を人々が当然のこととして生きるようになる点にある。ぜいたくは「素敵」だけれども、安易な生活は人の幸福にとっては、やはり「敵」なのだ。環境を乱さない夢のエネルギーが見つかったとしても、そのために人々がより幸福になる事はない。しかも、夢のエネルギーは今どこにも無いのだから、誰が考えても、約20億人の中国、インドの人々が今の日本人やアメリカ人の生活を始めれば、地球は破滅すると思う。どんな手段で得たエネルギーであれ、大切に、つつましやかに使ってこそ幸福感が得られるのだから、まず、日本が、経済について考え直して、エネルギーを大量消費しないで幸福になる例を示さなければならない。そのためには、消費の「冷え込み」が困る、というような短絡的な考え方から改めるべきだろう。石門心学が説くように、かつては「倹約」は商業活動の上での美徳であったが、現在も、それを美徳でないとする根拠はどこにもない(10)。エネルギーの浪費に何のリスクも伴わないと錯覚しているために、消費が奨励されたりするのだ。しかし、「考え方を改める」ことは個々の人々に対しては、いくら説法しても空しいであろう事は、アダム・スミスの経済学にあるように、己の利を好む人間の本性上、証明されている。

実効を挙げる近道は、エネルギーを使わない事が「もうかる」ように仕組むことだろう。過去の日本のエネルギー消費の統計を見ると、産業でのエネルギー消費は1970年代から、あまり増えていないのに、運輸、民生において倍近い消費の増加が起こっている(図3)。これは、車の増加と、ぜいたくな暮らしの普及を如実に示している。ぜいたくに暮らせる理由はガソリンや電気の価格が安いためである。価格が安ければ、それを節約しても大して得にならない。

節約が「もうかる」ようにするためには、電気料金もガソリンも少なくとも3倍以上にしなければならないだろう。ドイツの緑の党は、政策にガソリンの値段を段階的に3倍にしてゆくことを掲げている。そして、ドイツ政府は、近い将来に原子力発電を停止することを決めている。台湾でも原発の建設中止が発表された。けれども、ぜいたくはしたい、原子炉は嫌だ、というわけには行かない。これ以上の経済成長を続けない、という断固とした決断が同時に示されるのでなければ、それらの政策は失敗するだろう。「豊か」でない生活が幸福をもたらすのだ、とはっきり認識することが必要なのである。エネルギー消費の統計を再び見ると、1970年当時には我々は、現在の約半分のエネルギーしか消費していない。1970年頃に我々は、今と同じく幸せに暮らせていたのだから、少し頑張れば、半分のエネルギーで暮らしてゆけることが判る。そのレベルのエネルギー消費量であれば、自然エネルギーで都合をつける割合も大きくできる。

そんな事は、とんでもない絵空事である、とお叱りを受ける事は判っているけれども、前述のように、このままエネルギー消費を続けたときに予期される破局のことを考えるならば、どちらの取組み方が、「とんでもない」のか自明であろう。失業者が増える、国際競争力が下がる、という批判も当然受けるだろう。しかしエネルギーの価格が上がれば自然エネルギーの利用法も様々な分野で活発化するし、新技術の開発も盛んになり、人々の力も大切になるならば、職はむしろ増える。国際競争力が今、エネルギーの大量消費のおかげで保たれている、とすれば、エネルギー資源の乏しい日本で、それ程、不安全な話はない。一刻も早く、エネルギーによらない競争力を身につける事こそ大切であろう。エネルギーに税金をかけて価格を何倍にもする代わりに、集めたお金をそちらに回すようにしなければならない。平常時にそのような大胆な政策はとれない、と言う人もいるだろう。しかし、CO濃度が毎年1ppmずつ増える、最終管理場所が決まらないまま放射性廃棄物は毎年何千トンも出る、というエネルギー問題のさし迫った深刻さに、まともに目を向ければ、今は決して平常時ではない。

我々は、やむにやまれず「ぜいたく」はしたいけれども、やはりリスクは小さい方が良い。リスクを小さくするのは人間の社会生活上の基本的ルール、すなわち倫理の問題と言える。今、エネルギーを安価に大量に使って、経済を活性化し続けないと、失業者が出て社会不安が起こる、という配慮も倫理の問題だけれども、それは、目先の困難に対処すること、つまり今の世代の安易な生活を主眼においた、ミクロな倫理と言える。エネルギーや環境の問題は何十年、何百年、あるいは千年先の人類の事に目を向けた、マクロな倫理によって話をしなければならない(11)。

化石エネルギー、原子力などは、便利で有難いものだけれども、そのリスクを考えれば、どちらもなるべく使用量を減らして、「神様の息」で暮らす生活に近づける努力が大切である。本当のぜいたくは安易な生活の中にはない。頑張りが必要な時にこそ、安易な生活には無い幸福があるのだ。

 

 

. 結言

おわりに、ギリシャの哲学者エピクロスを称えて、アテナイオスによって書かれた警句(エピグラム)を引用して結びとしたい(12)。2千年以上を経たこの警句から我々は今、本当に真剣に学ばなければない時にあると思う。

「人間どもよ、汝らはくだらぬことに骨を折り、

 利得にかられて飽くことを知らずに、争いや戦いを始めているのだ。

 自然のもたらす富は、つつましやかな或る限度を保っているのに、

 汝らの空しい判断は、果てしのない道を進むのだ」


 1. 「風車場の秘密」:鈴木三重吉訳、赤い鳥、第20巻、第3号(1928.「コル

   ニーユ親方の秘密」、花田佐訳、風車小屋だより、岩波文庫(赤542-1)(1997.

2. W. S. Jevons:Coal Question, Reprints of Economic Classics,

    Augustus M. Kelley, N. Y. (1965),(初版1865.

3.  R. Clausius:「自然界のエネルギー貯蔵とそれを人類の利益のために利用す

   ること」、河宮信郎訳、中京大学教養論叢、第29巻、第3号、197頁(1988.

   「Ueber die Energievorrathe der Natur und Ihre Verwertnung zum Nutzen der

    Menschheit, Verlag von Max Cohen & Sohn (1885).

4. S. Arrhenius:On the Influence of Carbonic Acid in the Air upon

   Temperature of the Ground, Phil. Mag. and J. Sci. (1896).

5.     「一般気象学」、小倉義光、東京大学出版会、(2000.

6.     Einstein and Tagore : Man and Mysticism」、J.Conciousness Studiesvol.2 No.21995

     pp.167-179 

7.     A. チェーホフ:「ワーニャ伯父さん」、第二幕、医師アーストロフの言葉 .

      (Праздная жизнь не может быть чистой)  

8.     「技術へのハイデッカーの問」:辻村公一、日本学士院紀要 51巻1号(1996

9.        「幸福ということ」:新宮秀夫、NHKブックス 838NHK出版 (1998).

10.   「倹約斉家論」石田勘平(梅岩)(1744)、

     「石門心学」柴田実校注、日本思想大系42、岩波書店(1981.

11.  「黄金律と技術の倫理」:新宮秀夫、開発技術、6号、開発技術学会 (2000).

    http://web.kyoto-inet.or.jp/org/enekan/shingu/

 12. 「ギリシャ哲学者列伝」第10巻、第一章12:ディオゲネス・ラエルティオス

     著、加来彰俊訳、岩波文庫(青663-3)(1996.