「幸福論」


BEATE CERTE OMNES VIVERE VOLUMUS

               新宮秀夫

目  次

要約(英文)
緒言.幸福を考える理由
1.人間の本性の探求
   1.1  先哲の見た人間の本性
   1.2  進化論に基づく人間の本性
2.幸福について古来論ぜられてきたこと
   2.1  倫理学、宗教、幸福という言葉
   2.2  いろいろな幸福論
    2.2.1  中国とギリシャ
    2.2.2  アリストテレス
    2.2.3  キニク派とエピクロス派
    2.2.4  キケロとセネカ
    2.2.5  アウグスチヌス、ボエチウス、アクイナス
    2.2.6  儒家思想
    2.2.7  老子、荘子
    2.2.8  墨子、楊子、王充
    2.2.9  インド・ペルシャの幸福
    2.2.10 新しく書かれた幸福論
3.幸福感の分類
   3.1  人間の本能と幸福感
   3.2  幸福感の4つのステージ
   3.3  4階建ての奇妙な家
4.世の動きを支配する原理
   4.1  繰り返しによる物事の大きな変化
   4.2  経済(性善説か性悪説か、ウエーバー・フェヒナーの法則)
   4.3  哲学(運命論か自由意思か)
   4.4  とり返しのつかない変化(エントロピー増大)
   4.5  生物としての人間(誰が誰の先祖か)
5.幸福論と社会工学
   5.1  我々は何処へ行こうとするのか
   5.2  性悪説の下での理想の実現
   5.3  デボラ数と税金
総括.歴史は決して繰り返さない

参考文献

表 1 新しく書かれた幸福論 抄録

緒言.幸福論を考える理由

 たのしみは たまに魚煮て児童(こら)皆が うましうましといひて食う時。

                         橘 曙 覧

 個人の幸福は測り難いものだけれども、誰にも確かな自分の幸福というものはある と思う。人生の目的は幸福ではない、と云おうとすれば、その説明は大変難しいこと になろう。

 20世紀を終わろうとする現在まで、人類はひたすら開発・発展を押し進めてきた 。しかし、世界人口のわずか10%程を占める先進国と呼ばれる国々の消費するエネ ルギーでさえ、資源量と環境問題の両面から地球の持つ許容量を超えつつある。発展 途上国と呼ばれる膨大な人口の国々の生活向上が大きな勢いで進みつつある今、真の “先進国”とは、エネルギー大量消費、豊か、満足という国ではなく、地球の容量に 合わせた社会活動をしながら、国民が幸福である国のことでなければならない。した がって個人の幸福は測り難いものではあるけれども、基本的な、最も大切なところで 、幸福とは何かを考え尽くしておかないと、我々は今から何処を目指して進もうとし ているのか、目的を見失っていることになろう。単なる生活の利便性の向上や豊かさ が暗黙の了解であった時代の感覚を、我々は一刻も早く考え直し、新しい人類の目標 すなわち、我々がこれから進む方針を確立しなければならない。人間の社会活動の規 模が地球の許容量に比較して小さかった今までの時代には、我々の進むべき道につい て考える必然性も少なかった。けれども、50億を超える人間が地球上で幸せに暮ら そうという事を考えねばならない今、我々は最も難しい問題である「幸福論」を、改 めて真剣に論じなければならない時代にさし掛かっているわけである。それは、とり も直さずこれからの開発・発展の指針を見出すことでもある。

 憲法は国の基本方針を定めたものであるが、日本国憲法には、「幸福追求の権利」 の尊重がはっきり揚げられている(13条)。他国を見ると、イギリスでは王位継承 法(1701年)に国民の幸福の保障についてふれているし、アメリカ独立宣言(1776年 )における「幸福追求権が自明である」との宣言や、フランス革命(1789年)におけ る人権宣言の中にも幸福が含まれている。隣国である韓国では、憲法の前文にも条文 の中にも幸福の確保や追求権が揚げられている。国の方針として「幸福追求権」を揚 げた以上、その意味が何であるとされているかが、判然としているべきであろうと考 えられる。しかし、憲法についての2、3の書物を調べたところ、日本国憲法にいう 「幸福追求権」は「基本的人権(第11条)」との区別において議論があるとされて いる。つまり、生存とか食べるとか、という誰にも判る基本的な人権を超えたものが 、幸福であろうと考えることは容易だが、それでは、それはどんな権利かと定義する ことは、やはり難しいことと法律家の中でも(法律家だからこそ?)見られているよ うである。結局「幸福追求権」としてとり挙げられた判例は、プライバシーの権利と しての肖像権に関するものが唯一の例のようである。法律として幸福を規定すること は、このように中々難しいことのようであり、そのためか、中国、ロシア、ドイツ、 スイス、イタリア、カナダ等の国々の憲法には幸福はふれられていない。

 しかしながら、法律的な規定が難しくても、前述の通り万人の目指すものが幸福で あれば、これを出来る限り正面からとり挙げておく事は、最重要な事柄である事には 変わりない。そうすることによって将来は法律上も憲法の解釈においても幸福追求権 の意味する内容が確かになってくるかも知れない。(1-4)

1.人間の本性の探求

1.1  先哲の見た人間の本性

 人間そのものを知らなければ、どうして人間の幸福が何かを知ることが出来ようか 。この文章はルソーが、人間不平等起源論、で用いた表現を幸福に置き換えたもので ある。ルソーは思考の限りを尽くして、人間が本来どのような性質であるかを探ろう とした。つまり、人間は社会生活の経験が長すぎて、附加的な習慣や、外的条件によ って人間の本性には無い行動を余儀なく行っている事が多いと考えたわけである。ル ソーは、人間には元来は不平等は無かったのに、長い時間のうちに少しずつ不平等が (人間の本来の性質に反して)増長してきた、と見て、人間の本性には理性に先立っ て2つの原理があるとした。それらはまず、自己愛、でありもうひとつは、憐れみの 情、である。ここでいう自己愛は利己心(これは附加的なことと見ている)とは異な る他人も含めた生命への愛みたいなものとしている。これらの本性にのみ基づけば、 人間の不平等は生ずるはずが無いわけであろう。

 ところで、ルソーのこの2つの本性を合わせるとそれは、孟子の性善説に大変近い 。孟子のいう「惻隠之心、仁之端也(そくいんのこころは、 じんのたんなり)」と いう文章に示された惻隠(あわれみ)の心や、仁(究極的な徳)に、2千年も後の人 であるルソーが気付いている事は面白い。しかし、この性善説は多分に人間の願望が 入り易い概念である。この説でゆけば、人間は本来性善で憐れみ深い者だから、ごく 自然な情況では万事上手くゆく、つまり不平等もなく幸福でもある世界になる。とい うことだが、願望は往々にして正しい思考、クールな判断を曇らせる。この点を衝い たのが、荀子の性悪説である。「荀子」には、「人の性は悪にして其の善なるは偽り なり」とある。偽りとは後から作ったもの、ということだそうであり、その後の文に は、「人は生まれつき利を好むものでる」と書かれているから、ルソーの考え方とは 全く逆である。

 “性悪説”と、はっきりは表現はされていないが、人は生まれつき利を好む、とい う見方を徹頭徹尾採用したのがルソーと同世代の人であるアダム・スミスである。ス ミスの経済理論は、利己心の自由な発現こそ、その個人は意識しなくても、自然に社 会の利益に結び付くとするものである。いずれにせよ、人間の本性の自由な発露が幸 福に結びつくだろうという仮定を先ず受け入れるとすれば、性善説の立場では、なる べく本性を発揮させるように導くあるいは工夫することが必要だが、性悪説では荀子 も云うようになるべく本性が露わに出ないように教化することが必要となる。性悪説 を基礎とするスミスの経済理論も、今までは大成功だったけれども、本質的欠陥を矯 正する必要のあることは後で述べたい。(5-7)

1.2  進化論に基づく人間の本性

 人間そのものを知らずして人間の目指すものを知ることは出来ない、と考えた先哲 の思考法には感心させられる。性善説、性悪説も、結局どちらと決定は不可能かも知 れないが、そのような概念に照らして人間の行動を論ずると話が判りやすいことは確 かであり、素晴しい智恵だと云える。さて、孟子、荀子は云うにおよばず、ルソー( 1712-1778)もスミス(1723-1790)も、進化論の提唱者ダーウイン(1809-1882)よ りかなり前の時代の人々である。したがって、人間そのものを知る、と云っても、結 局人間は、始めから人間であるとの仮定(ルソーは仮定と云っている)に立って人間 そのものを考えざるを得なかった。アリストテレス(B.C.384-322)も、前歯と臼歯 の機能の差を例に挙げて自然淘汰による進化に言及しながら、目的論つまり自然現象 すべてには目的があると(自然界の秩序のあまりの素晴しさの故に?)結論して、進 化については深く考えていない。そこで、これらの人々が、仮に進化論を知っていた らどう考えたであろうか、という発想で人間そのものを考えて見る。  自然界を見ると植物、動物を問わず、いずれも環境に合わせて驚くべき適合性を持 って生きている。適合性ということは、種の存続という目的に最も都合良い形、行動 パターン等をとっているということである。そこで、人間を含む動物の、種の保存の ための手段を考えてみると大きく3つの事柄が重要なことが判る。それらは、 1. 生むこと、 2. 食べること、 3. 危険を避けること、 である。これらは生殖、生存、防衛、の“本能”と云えよう。自然の作用は、生物に これらの3つの本能を上手く発揮するために種々の都合の良い進化を、形態や機能と して与えているけれども、何が何でもこの3つの事柄を動物がやり遂げるようにする ための最良の方法として、これらのいずれにも、“快”、というものを与えている。 恋することが快であり、食べることが快であり、自分や仲間を守ることが快であるか らこそ我々は皆、命をかけてこれらのことをやり遂げることになる。

 人間が、ただそれらの快を持った2本足で歩くというだけの動物でいれば、地球は 今も森林に覆われた、美しくも豊かで、平和かつ野獣に襲われるというような小さな 危険に満ちた世界であったはずだけれども、自然は人間という動物に、3番目に挙げ た危険から身を守る機能として“考える”という能力を与えてしまった。この“考え る”という能力が如何に恐るべき武器であるかは、50億という地球を覆う人間の繁 栄と500頭といわれるゴリラの数とを比較すると直に判る。

 もちろん自然は“考える”という自己防衛手段、(攻撃手段でもある)にも“快” を与えていることは、論語の冒頭にある孔子(B.C.552-479)の言葉、「学而時習之 、不亦説乎(まなびてときにこれをならう、 またよろこばしからずや)」にも明ら かだし、アリストテレスの“形而上学”の最初の文章、「すべての人間は生まれつき 知ることを欲する」からも、知り、考える、ことが人間の好むことであることを知る ことが出来る。この“考える”ことが“快”である事は恐るべき武器となって人類を 繁栄させると同時に、他の“快”にも甚大な作用を及ぼすことになった。つまり考え る、記憶する、という機能は、すべての“快”に付随する人間の行動を、経験を元に して次の行動の参考にすること、すなわち強いフィードバック作用の下に置くことに なったわけである。人間以外の動物ももちろん、食餌行動で、犬の訓練のように失敗 を記憶して繰り返さない、という弱いフィードバック能力は持っているけれども、人 間のそれは比較にならない強力なものである。その結果、人間以外の動物にも存在が 推察される“快”が、人間では単なる“快”として片づけられないものになってしま った。たとえば、恋愛感情などは大変複雑微妙で、人間の幸福感に大きく作用するも のであり、それを子供を作るためだけの感情だと云う人がいたら笑い者にされること は必定であろう。それ程、“考える”という機能は“快”のあり方を複雑にしている。  更に、元来、異性を得ることも、食料調達も、防衛も、太古の自然の中ではそう容 易な事では無かったことを反映して、自然は苦難に耐えることをも“快”とする要素 を人間の本性に入れているように思える。それは太古ではない今の世の中に至っては 、例えば、好きです、OK、結婚、というパターンではあまりにも感動が少ないとい うような人間の心の微妙な心の動きに受け継がれているようだ。テレビドラマのお決 まりのパターンは、100回拒絶されてやっと成功したり、結局不成功だが何かの感 動的理由で納得したりといった事になっている。“考える”ということが快を複雑に しなければ、こんな事は起こらない。

 功利主義を提唱して、「最大多数の最大幸福」が社会の目標であると述べたベンサ ムは、ありとあらゆる“快”を列挙してその内容を説明しているが、人間の幸福は“ 考える”ことに基づくフィードバックのために、分離分類された“快”では説明でき ない。このように、経験に学び、その結果としての行動を又、経験として次々と行動 に作用させてゆくこと、更には行動を伴わない思考の上だけでも、このようなフィー ドバックを行うことは、後述する人間が最も問題としてきた無限に対する恐れや、偶 然か必然かという問題に悩む原因になっている。人間そのものを知る、という大それ た話には結局至らなかったけれども、人間の感ずる幸福をどのような方向から考える 事が出来るかを以上に示した。この考えに基づく幸福感の分析に入る前に、古代から の、幸福についての人々の考え方を振り返って見よう。(8-10)

2.幸福について古来論ぜられてきたこと

2.1  倫理学、宗教、幸福という言葉

 倫理学が本来幸福について考える学問であることを、多くの人は知らないのでは無 いだろうか。人間の究極目的としての幸福が何かを述べるために、快、愛、徳、善な どについて論じたアリストテレスの「ニコマコス」という本が、ニコマコス倫理学と して広く知られている事は、幸福を解析する学問が倫理学であることを示している。 ベンサムも倫理学の定義は他の人に最大可能な幸福を与える方法のことだとしている 。哲学者三木清も最近(昭和50年頃)の倫理学が幸福論を離れているのはおかしいと 云っている。ところで、倫理といえば、道徳や礼儀、エチケットなどが頭に浮かぶこ とと思うが、このことは考えて見ると徳や礼とは、元来人間が幸せであるための方法 、手段であったことに気が付く。そう思って読むと、中国の古典である礼記は、おじ ぎの仕方などの細かい作法ばかりの書かと思いきや、成功におごってはいけないとか 、楽しみはほどほどにしないと反って良くない、とかいう幸せのための心得を通じて 本当の幸せの求め方を述べている、と読めてくる。したがって古来の幸福論をレビュ ーするに当たっては、幸福や幸福論に限らず、礼や徳に関したものも入れて論じてゆ きたい。更に宗教も、人間を幸福にする道を示すものであるから、何を幸福とするの かを参考にしたいと思う。

 さて、幸福という言葉はギリシャ語の“エウダイモニア”の訳であることがほとん どで、これは我々の今使う幸福という言葉のイメージでほぼ良いような気がする。つ まり明らかに単なる快や楽しさ、満足といったものと異なる、何か人間の究極の目的 となり得るような概念を漠然と指して使われてきたと見なせよう。英語のハッピネス もそれが元来、意味した幸運な出来事(ハップン)を離れて、前述の「幸福の追求」 というように人生の最高の目標として揚げるべき言葉として使われている。日本語に も中国語にも元来「幸福」という言葉はなかったが、明治の初期に、ベンサムの功利 主義の著作を訳す時に作られたらしく、今では中国語にも使われている。更に幸福な 状態を特に強調する時に日本語でいう至福という言葉も英語のあるいはラテン語のベ アテイテユード、フェリシテイなどの訳であろうが、今、幸福論を考えるに当たって は、特に必要なとき以外はただ幸福という言葉について考えてゆくことにしたい。( 11-12)

2.2  いろいろな幸福論

2.2.1  中国とギリシャ

 中国とギリシャにおいて、B.C.6-0 世紀に論ぜられた哲学は、ひとつには自然の仕 組すなわち自然学だが、他の大部分は人間の生き方、すなわち“幸福な生”について に関することである。いろいろ読めば読むほど考え方に共通点の多いことに気が付く 。とくに両者とも多様な思考の人々が存在するのに、どちらにも似たような人物の存 在することは面白い。ギリシャの方は物語的、解析的であるのに対して、中国の方は 格言的な表現でよく考えないと判り難い。

2.2.2  アリストテレス

 先ず、アテネの政治家ソロン(B.C.640-560)と、当時全盛を極めていたリユデイ ア王クロイソスとの幸福についての対話が有名である。クロイソス王は著名な賢人で あるソロンから自分を世界一の幸福者と云って欲しかったのに、ソロンは、今、王は 莫大な富と権勢を持って幸せそうだけど先のことは判らない、一生を終えるときに幸 せかどうか見極めるまで、人間の幸せは決して云えないと述べ。更に人間の一生を7 0年としても、その26250日の間に、ただの1回も同じ日が無いことを考えて見 なさい、明日何が起こるか誰が予想できるでしょう。と云ったとヘロドトスの“歴史 ”には書いてある。

 ここで「死ぬときまで、その人の幸福を評価することが出来ない」という多くの人 が採用している幸福の概念が早くも示されている。これに対してアリストテレス(B. C.384-322)はニコマコス倫理学の中で、このソロンとクロイソス王の話を引用して 、その考えはおかしいと云っている。アリストテレスによると、死んだ後のことはど うでも良いと考える人は少なく、子孫の幸せも人は望むはずだ。しかし子孫にも時に よって幸、不幸が巡ってくるであろう。そうなると、ある人が死んだ後もその人が幸 せになったり不幸せになったりする奇妙なことになる。また、今幸せな人を、まだ起 こらない事を恐れて幸せで無いというのは如何にもおかしい事だと述べている。アリ ストテレスのニコマコス倫理学には、更に、徳の高い高邁な心を持てば偶運によって 、いわゆる“不運”に見舞われても決して不幸になることは無い。賢明な人は、現に あるものを利用して、最も美しい行為を作り出すことが出来る。これは丁度良い靴作 りは悪い皮でも、もっとも美しい靴を作ることが出来るのと同じだと述べている。

 ここまで完璧に幸福論の真髄を2千年以上前に書かれていると、ここで筆を投げ出 して終わりにしたくなるけれども、こんな有難い説教があっても、ずっと後の人々に も、この死ぬまで人の幸福は量れない、という概念は根強く生き残っている。例えば モンテーニュ (1533-1592)も有名な隨想録の中で、「我らの幸福は死後でなければ断定してはな らない」と書いている。そして、私の研学は終わりを立派にするため、と云っている 。幸福なときが幸福、立派な行為をしている時が立派で、あと先のことは、その時の 事、という気持ちになる人はやはり少ないようである。

 さてニコマコス倫理学の述べる幸福を更に紹介すると、幸福が人生の究極目的であ るという前提をとれば、遊ぶために仕事するという考えが全くおかしいことになると 述べている。つまり人は仕事を一生やるのだから、その仕事を真面目にやるために遊 ぶのでなくてはおかしい、したがって休むことも同様に、良く仕事するために休むと いうことになる。結局仕事が幸せでないと人生は何の目的で生きるのか判らない、幸 福を目的と選定することに意味が無くなる、という事のようである。又、善い行いに おいても極端は避けるべきで、中庸が大切だとも書いている事は、中国の四書のひと つ“中庸”の概念そのものである。つまりアリストテレスはギリシャの哲学者の一般 的指向を代表して、幸福が心の平静の中にあると見て、何事によらず極端を避ける気 持ちが強いように見られる。結局最高の幸福として求める生活は、神の生活の如き徳 のある哲学者の生き方と考えたようだが、神をモデルにしようにも、神はお金も快楽 も関係ない存在でないとおかしいと気がついて、やはり何となく神に近いような、観 照の生活を理想としている。この考え方には始めの方に書いてある前述の徳の高い人 は不幸にならない、という考え方ほどの説得力が無いように見える。神と人間を比較 すると問題が難しくなるためであろう。(13, 14)

2.2.3  キニク派とエピクロス派

 アリストテレスの他に、幸福を論ずる上でギリシャ哲学の流派で重要なのはストア 派だが、その他で面白いのが、キニク派(犬儒派)とエピクロス派なのでこれらを先 に見てみよう。キニク派の中のスターはデイオゲネス(B.C.412-323)で、この人の ことはギリシャ哲学者列伝の中でもかなりの頁を割いて面白おかしく書かれている。 樽の中の聖人、と呼ばれるように、大きな酒樽の中に暮らして、およそ世間的常識を 無視する生活をしたということだ。言いたい放題の語録みたいなものが現在でも面白 いと思われているのは、今も昔も世間的常識が、実は本来そうあるべき常識とは大き く異なる事が多いためであろう。本当のことをズバリ云うことは、今も昔も皮肉、冷 笑となり、それを“シニカル”な発言といわれるのはこのキニク派が源となっている 。子供の1人がデイオゲネスの弟子になった事を気遺った父親が、もう1人の息子に 様子を見に行かせたところ、その子も帰ってこないので、自分が様子を探りに行った けれど、ついに自分も弟子になってしまった、という話があり、どんな人もこの樽の 中の聖人の話の虜になったという程だから、余程魅力のあった人だと思われる。魅力 は幸福の証拠だと思うけれども、自然に生きる事を代表するキニク派という、そんな に昔に存在した一派が今も伝わるという事が、それも幸福のうちかと考えさせられる ものがある。

 エピクロス派はエピクロス(B.C.342-271)が独自に開いた哲学とされるが、キニ ク派よりも有名で、快楽主義者(エピキュリアン)という名称が与えられており、幸 福論には大変縁が深い。しかし彼等のいう快は世間でそう思われているような、肉体 的快楽や美食などでは無く、徳の高い自然に則した精神的な快であったとする伝承も あり、それが確かかも知れない。と云うのは、エピクロスの考えとされ、大変有名で 、かつ幸福論にも関係の深い運命論に関連して、原子の動きの予定の進路からの偶然 のずれという話がある。エピクロスは、デモクリトスの原子説を採用しており、万物 は不可分の微小体すなわち原子から出来ており、この原子が、肉体も精神もすべてを 作るものであると言明していた。しかもすべての事象は原子の集まりである物体の運 動の結果なのだから、運動が規則に従って起こるかぎり運命は定まっているはずだ、 しかし原子の動きに極くわずかな、“ずれ”が生ずることにより、偶然起こると見な せる事象も起り得る、と結論している。これは現代のカオス理論における初期値敏感 性(たとえばよく云われるバタフライ効果など)を予見するような考え方であり、こ のような驚嘆すべき考察を、ほとんど何の実験的証拠も無しに考えることの出来た人 物が、どんな快楽主義者であったか、それこそ今となっては不可知の事象に属するの で想像を楽しむことしか出来ない。(15, 16)

2.2.4  キケロとセネカ

 キケロ(B.C.106-43)は“トスクルム論議”という本の中で幸福について論じてい る。キケロはシーザーを中心とするローマの激動の時に政治に身を投じて、色々と画 策してついには殺された人だが、死の約2年前に書かれたこの本は大変真面目な、よ く考えられた内容のものである。幸福については基本的にはストア派の考え方である 、徳のある生活をすることだと結論している。その結果達成される心の平静(アパテ イア)によっていかなる状況(たとえ拷問にかけられているような時でさえ)におい ても幸福を保持できるものだと主張している。そして、徳が高いということは、足る を知って自分の置かれた状況に不満を持たないことだとしている。一番最後には、現 在自分の置かれている苦しい状況は、この書物(を書くこと)以外に慰めるものが無 い、と書いている。これは自分の信ずる幸福に対する哲学を書くことにより確認して いることの良く判る文章だと思える。キケロは、「宿命について」という題の文章も 書いているが、その中では、運命論を否定し、自由意志の働きを主張している。しか しエピクロスの云う原子の動きの“ずれ”が偶然、ひいては自由意志の可能性を与え る、という説は激しく非難している。この非難のための表現の激しさを読むと、この 人の性格が判る気もする。これでは自分の書いた幸福論と反しているように思える。 しかし面白いことに、エピクロスの説を詳しく述べて非難しているため、逆にエピク ロスの考えを良く知ることが出来る。

 セネカ(B.C.4-A.D.65)もローマの政治家で、ネロ皇帝の先生だったが結局はネロ に殺されてしまった人である。著書「De Vita Beata, 幸福な生活」は幸福を題名に した最初の本かも知れない。完成されたストア的人生論、すなわち節制と禁欲的生活 の賛美、貪欲やや野心の排斥、死に対する心構えすなわち、現世の終わりに永遠の生 である天国があるという考えを詳述している。そして実際にネロ皇帝によって派遣さ れた処刑者が到着しても少しも騒がず従容として死についた、とされている。(17-20) 2.2.5  アウグスチヌス、ボエチウス、アクイナス

 アウグイチヌス(354-430)は古代キリスト教会の教父で、聖書の解釈をはじめ膨 大な著作があり、その中に「De Beata Vida, 至福の生」という著書が含まれている 。この中では「我々は皆、幸福であることを希う」というキケロの言葉を引用して、 それでは「人は欲するものを所有すると幸福であろうか?」と問いかけて、その得た ものが移ろい易いもの(富や名声など)であれば、失うことを恐れねばならないので 幸福とはいえない、運命に左右されないで常に存在し続けるもの、すなわち神を所有 することのみが幸せである、と答えている。

 アウグスチヌスは聖書の中でも、とくに幸福について書かれた“山上の説教”を重 要視しており、「主の山上のことば」という本を書いている。聖書の山上の説教(マ タイ5・3-11, ルカ6・20-26)では幸福は富、飽食、喜び、好かれること、の中には 無く、貧、飢え、悲しみ、憎まれること、の中にあると教えている。この説教はあま りに逆説的な教えなので、特に解釈が必要と思ったからに違いない。この本の最初に アウグスチヌスは、この説教を、「キリスト教の道徳生活の完全な規範をそこに見出 す」と述べている。そして、その説明として、聖書のこの説教に続く部分にある、「 これらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と いう言葉を引用している。しかし、この説教の解釈は非常に多様なようで、現在に至 っても、この説教の解釈が出版され続けている。このことは、幸福を論ずることの大 切さを皆が感じているためであると同時に、キリストの言葉とされるマタイ伝やルカ 伝のこの幸福に関する言葉を、そのまま受け取る事が本当にゆるぎない幸福(岩の上 に家を建てるように)を見出すことになる、と気付くには、あまりにもこの説教が、 日常の世間的な常識や習慣と逆であるためであろう。

 逆説的でありながら実は真理を云い当てている言葉には、親鸞の説教である歎異抄 の「善人なおもて往生を逐く、いわんや悪人おや」という、悪人正機説、がある。こ れらの言葉になぜ真実がこもっているのかについては後述したい。

 アウグスチヌスは、キリスト教の教父として最高の人といわれた程であり、幸福す なわち人生の究極の目的を語る時に避けて通れない難問である神の摂理(運命論)と 人間の自由意思(あるいは予測不可能な偶然の出来事の存在)の存否についても、「 自由意思論」という本を書いている。この悩みは、後述のボエチウス等にも引き継が れているが、難問中の難問で、後述する現在のカオス理論にも関係しているが、アウ グスチヌスの解決法は「神は全能で、幸福になることを含めてすべてを予知する(運 命論的)けれども、幸福になることは人間の自由意思によっている、神が予知してい る(つまり決まっている)からといっても幸福になる人は何もしないでも(意思をは 働らかさずとも)幸福になる、と考えるのは愚かである」という論法である。歯切れ はかなり悪いが、全能の神ということを前提とするとこの困難は避けられない。

 ボエチウス(485-524)はローマを滅ぼしたゲルマン民族の、東ゴート王国の宰相 だったが謀反の疑いで殺された人である。著書「哲学の慰め」の中で、すべての人の 行動の目的は善を求めるという目的による、そして善とは神のことであるとしている 。また運命について、全能の神は未来を知っているか否か、知っているとすると運命 は決まっていて不変であるか、という問題に悩み抜く話を、女神との対話の形式で書 いている。結局、人的予知と神的予知は異なり、自分は人間だから神的予知について は不可知とせねばならない、しかし、人的世界では運命は決まっていない、神への祈 りは運命を切り拓くためには有効であり得る、と結論している。

 トマス・アクイナス(1225-1274)は「神学大全」の著者で、その第1部の第2問 1ー21、「人間の行為と目的」において徹底的に、幸福とは何か、幸福に到達する ことが可能かなどについて、設問と答えの形式で記述している。又、同書、第1部の 第2問69において「至福について」を書いている。先の「人間の行為と目的」では 、たとえば、万人が幸福を欲するか、との設問をして、何かを欲するという時には、 その欲するものが何であるかを知らなければ、欲することにならない。したがって、 多くの人は幸福が、唯一至高善すなわち神を得ることであることを知らず、富や物的 充足を幸福と(間違って)見なしている。つまり万人が幸福を欲しているとは云えな い。と書いている。又、「至福について」の中では、聖書の山上の説教の重要性を強 調して、これにより至福はすべて正しく語られているとしている。

 トマス・アクイナスはアリストテレスの教義をキリスト教に融合させて、煩瑣(こ まごまとわずらわしい)哲学と呼ばれるスコラ哲学を完成させたと云われているが、 幸福についての聖書の表現、とくに山上の説教の逆説的な幸福の説明はアリストテレ スの哲学の中には無い新しいものである。すなわち、アリストテレスは、前述の通り 、徳の高い人は楽しい時のみならず、どんな苦しい時においても、幸福であり得る。 と云っているのに対して、聖書の説教は、富んでいる時、十分食べている時、喜んで いる時、人々に好まれている時は幸福ではない、そうではなく、貧しい時、飢えてい る時、悲しんでいる時、人に憎まれる時こそ幸福な時ですよと云っている。この発想 は幸福の考察のだいぶん進んだステージと見られるけれども、これに関しては後でま た触れる。(21-26)

2.2.6  儒家思想

 中国の哲学では、人間の究極目的として、道、仁、恕などという表現が用いられる 。ギリシャ哲学における究極目的が幸福であるから、これらを同じ概念であると見て 、中国哲学における幸福観を考えて見る。  孔子(B.C.552-479)の思想に始まる儒家思想は、論語、礼記に記されており、孟 子(B.C.372-289)や朱熹(1130-1200)によって解説集大成されていった。儒家思想 の源である“論語”を読むと、人がこれひとつだけ、一生守るべき一言は、“恕”と いうことで、それは何をすることかと云うと「己所不欲、勿施於人 (おのれのほっ せざるところ、ひとにほどこすなかれ)」ということだと書かれており、別の箇所に は、この行いは、すなわち“仁”であると孔子が述べたことになっている。仁が儒学 における人の求める究極目的であり、とくに仁者はどんな行いをするのか、というよ うなことが論語に説かれているが、結局、仁者を幸福な人と置き換えれば、前述した 通りアリストテレスのいう、どんな状況においても不幸にならない徳の高い人と一致 する。このことは論語の「仁者不憂(じんしゃは、うれえず)」という言葉にそのま ま示されている。儒家のもう1人のリーダーである孟子は前述の通り、測隠の心、す なわちあわれみの心が仁の基本であると述べており、そのことは人の心の中に幸福に なる要素があると云っていることになる。

 儒家思想の重要な本で、幸福論に最も関係深いのは、礼記であり、これも前述の通 り社会活動における儀礼の手順や方法、道具などの記述を除けば、倫理学、すなわち 幸福を達成するための考察を述べたものと見なせる。特に、その一部を独立させて朱 熹が解説まで付けた、「中庸」と「大学」は倫理学的な記述が主になっている。“中 庸”という言葉自体がアリストテレスの云う幸福達成のための心得と一致することは 前述したが、「大学」に示される中心的概念は、天下が平らかになる、すなわち世界 が平和に、人民が幸福になるための必須条件である。これは、有名な、格物、至知、 誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下という順序で達成されるという説明がなされ る。格物とは世の中の物事の理を明らかにすることで、その結果知識を得て、それに より意思を誠に向け、それにより心を正しく、それによって身を修め、それによって 家を斉え、それによって国を治めることが出来て、結果として世界が平和になります 。つまり格物がすべての基本で、ここからの積み上げが大切であり、いきなり平和や 幸福と云うことを求めても無駄ですよ、というのが主旨である。

 ほかに、大学にある有名な言葉には「小人閑居為不善、無所不至(しょうじんかん きょして ふぜんをなす、 いたらざるところなし)」がある。小人とは幸福を達成 した仁者や仁者の行いに沿うことを旨とする君子に対比される人間で、云うなれば我 々一般の人と云えよう。この文は、一般人は閑になって、することが無いと、よくな い事(不善)を始める、そしておよそ考え得る限りの悪事を働くことになると云って いる。こんな状態はもちろん非常にアンハッピーであることは自明だが、小人には適 当に仕事を与えて余暇を少なくすることが幸福なのだということになる。世の中に聖 人や君子の資質を持っている者がごく少ないことは、身の回り見て、又自分自身のこ とを考えて見ればすぐに判る(この点荀子の性悪説は正しいと思える)。この考えに よると、「富んでいるあなたがたは不幸である、今満腹している人々、あなたがたは 、不幸である、今笑っている人々は、不幸である、すべての人にほめられる時、あな たがたは不幸である」(ルカ伝6・24・25・26)という言葉の意味が判ってくる、つ まり我々一般人は貧乏で、飢えて、悲しんで、いる時には毎日働かねばならないし、 悲しさを押さえることを考えねばならない、つまり目的が明確である。ところが我々 一般人がたまたまお金持ちになったら、つまり働く必然性が無くなったり、しかもお 金の力で何か事を行う能力を得たら、まずロクな事をしない事は想像に難くない。つ まりすぐに、不幸に見舞われる。この見方は、経済学の創始者といわれるアダム・ス ミスも国富論で、「一般人は、たった1週間の無為のために、一生を台無しにする程 の取り返しのつかない破滅的な行いに陥ることも起こり得る」と云っている。こうな ると5月のゴールデン・ウイークに10連休も与える会社の方針は、社員を不幸に陥 れようとしているのかも知れない。暇が無い、休みが欲しいと思っている状態が我々 一般人の幸福だ、という感覚は判るような気もする。(27-29)

2.2.7  老子、荘子

 儒家思想では人間の究極目的、ここで考える幸福は、仁、恕であって、それの達成 に向かって人間は学びに学ぶことを薦められる。もちろん前述のように学ぶこと自体 によろこびを感ずることが出来ることも説かれている。老荘思想は、これと全く逆の 発想で、やはり人間の究極目的である“道”を達成しようとしている。だからここで は“道”を幸福と見ることにする。老子(B.C.400 頃?)の考え方を最も端的に表わ す言葉は、老子第48章の「無為而無不為(なすなくして なさざるなし)」であろ う。すなわち何もしないでいて、全てのことが為される、という状態が実現して始め て道が得られるという考えである。この章では、まだ何かする事のある状態では天下 を取るには不足である、とも云っている。老子の云う天下を取るという言葉が、国の 王様になることとは、とても考えられないから、天下を取るということは完全に幸福 になる、と考えるべきであろう。

 この何もしないで天下を取る、という考え方は、何もしないで放ったらかしが最良 、という風に解釈されることもあるが、それはおそらく違うのであろう。全てが上手 く行くためには、肝心要(かなめ)の点を押さえておくことが最重要で、これを押さ えないでその回りの事に手を掛け始めたら、何事も上手く行かない上に、いくらでも やる事が発生して忙しくて仕方がない、つまり無為になることは出来ない、という考 え方ならば理解しやすい。この考え方が、間違っていないことは、73章にある「天 網恢恢、疎而不失(てんもうかいかい、そにしてもらさず)」という言葉に示されて いる。つまり網が無いわけではなく、目的物を捕えるに必要十分な粗さの網を使うの だ、と云っているわけである。

 荘子(B.C.370-310 ?)の考えも老子と同様に自然に逆らわずに道、幸福を極めよ うというものであるが、老子よりは、より現実的、世間的見方が入っているように思 える。幸福に関連してとり挙げなければならない言葉は、「多男子則多惧、富則多事 、寿則多辱、故辞(だんしおおければおそれおおし、 とみおおければことおおし、  いのちながければはじおおし、 ゆえにじす)」である。つまり子孫が多い、お金 がある、寿命が長いということは、それに付随する心配、雑事、恥辱、を考えると、 もらっても困る、という言葉である。このストーリーは、聖帝と呼ばれる尭が、地方 の役人(実は仙人)からこの3つの事を祈りましょうと云われて、上記の理由で辞退 したところ、この3つの事は、その扱い方によっては何も恐れる事はない、あなたを 聖人と思ったが、一般の人と同じ考え(上記の理由)でこれを辞退するようでは聖人 ではない、と云われたという話につながっている。つまり荘子は、山上の説教にも挙 げられた幾つかの、人々が一般に望む幸福にひそむ危険は、聖人としての人格があれ ば避け得るし、それを利してより幸福になれるとしている。(30, 31)

2.2.8  墨子、楊子、王充

 中国の思想は以上の儒家と老荘が本流であろうが、これらの思想にとらわれること なく、あるいはそれらに反撥して独自の思想を主張した人々も多い。それらの中から 幸福論に関係深いと思われる主義主張をいくつかとり挙げてみる。墨子(B.C.480-39 0)は兼愛という言葉で、戦争のない平和な世界の実現のための思想を述べたことで 有名である。「墨子」の兼愛上篇に書かれている思想は、もちろん愛することが争い を避ける基本であるということだが、墨子の偉いところは、自分や自分の廻りや、自 分の家、自分の国などだけを愛するのではなく、他人、他家、他国をも同じように愛 すべきだ、という兼愛の思想を示したことである。その哲学を端的に示す有名な言葉 は「視人之身、若視其身(ひとをみること、 そのみをみるごとくす)」である。其 の身すなわち自分を愛するごとくに他人をも愛しなさい、ということだから、聖書の 教えに大変近いし、論語にある孔子の言葉と同じ考えを、別の面から云っていること にもなっている。

 又非攻上篇では、戦争を避けるべき理由をいくつも挙げて、戦争して領土を奪って も結局又失うだけで、一向に平和にも幸せにもならないことを説き、更に、戦って( 人を殺して)功績を挙げるという考え方が、根本的に人倫にもとる行為であることを 説いている。その説明として有名な言葉は、「少見黒曰黒、多見黒曰白(すこしくく ろをみてくろといい、 おおくくろをみてしろという)」である。黒をちょっと見る とそれは黒だと云った人が、たくさんの黒を見てそれは白だと云ったとすれば、その 人は黒白の区別のつかない人であるとされるはずだ。つまり戦争のような大きな非を 行うことが世間で義とされるのは、黒を白と云うことに等しい間違った考えだと云わ ねばならないと述べている。又運命論についても非命上篇に書いており、当時の中国 で流布した定命説、すなわち運命論によって人民が働く気を失くすことの愚かさを説 明しようとしている。しかし、やはり運命論の説明は難しく、古代の殷や周のあやふ やな歴史を持ち出して説明しようとしている。

 楊子(楊朱)(B.C.395-335)は“我為説”つまり自己本位の論で有名である。と くに、「不以一毫利物(いちごうをもってものをりせず)」という言葉で知られてい る。つまり髪の毛一本を犠牲にして人のために計ることをしない、という主義である 。しかし、もちろん人に利を進んで与えない代わりに、人からもそれを期待はしない 。云うならば個人主義の考えである。そして「何生之楽哉(なんぞせいをこれたのし まんや)」すなわち、どうせすべて消え去る死んでからの名声を、残すことなどは無 駄で、今の生を楽しむべきだと云っている。富や名声の無意味さを指摘することや自 分のしたい放題をするべきだと云うことは、キニク派やエピクロス派に近いように見える。

 王充(27-96)は「論衡」という書物を著して、唯物論と見られる物の見方をした ユニークな人物である。この論衡は、まず自紀篇すなわち、自分の話(自慢)から始 まっている。その中で、自分は他人がいくら自分をおとしいれようとしても、最後ま で言い訳をしようとしなかった、そしてまた、その人間をとがめたり憎んだりするこ とも無かった。と云っており、そのように平気でいることの出来る理由として“清ら かでさえ無ければ塵をつけられない、高くなければ脅かされない、広くなければ削ら れない、満ちていなければ欠かれることもない”と云っている。これも、何と山上の 説教に似ていることかと感心させられる。このように構えずに、さらりと書かれると 、あまり逆説的にも感じないで当然のことのように読める。

 自然篇では、天に意思は全くないと述べて、中国にも一般的であったらしいアリス トテレス等の主張に似た目的論、すなわち穀物は天が人に食べさせるために実らせて いる、というような考え方を真っ向から否定している。同じく死人の霊なども全く考 えることが無駄である、そんなものがあったら、天地が始まって以来の霊で身動き出 来ないはずだと書いている。そして又、商虫篇では、人間も虫(イナゴなど)も同じ 虫だ、だからどちらも穀物をうまいと思って食べる。それなのに人間は虫(イナゴ) が穀物を食べるのを災いというのはどういうことだ、人間がそういうのなら、虫は人 間が災いを与えていると思っているはずだ。と、世界でも珍しく人間と動物の幸福を 同一視している。唯物的な思想として革命後の中国で大変評価されており、天安門前 の歴史博物館にも胸像つきで詳しく紹介されている。(32-34)

2.2.9  インド・ペルシャの幸福

 インドの聖典ウパニシャッドには宇宙の根本原理である梵(ブラフマン)と、人間 の本質である自我(アートマン)との関係が書かれている、と云われている。ウパニ シャッドを読むと、歓喜、という言葉も見られるけれども、説こうとするところは、 幸福などという人間が味わうこと、感ずることの可能な状態を超えた自然と人間との 一致のようである。梵や自我には、過去、現在、未来だけではなく、それを超えた何 事か、何ものか、状態かの存在を説いている。とてもギリシャや中国の幸福感と同じ 思考法ではついてゆけない。実は何も判っていないのだろうと見るのが常識的な、健 全な見方かも知れないが、意味が深そうでもある。自我(アートマン)は人間のこと のようであり、今まで扱ってきたように人間の究極の目的を幸福と見て、ウパニシャ ッドを読んで見ると、自我の4つの状態のことが、書かれていることに気付く。それ らは、1.覚醒状態、すなわち通常の人間の活動をしていること。2.夢寐状態、すなわ ち夢を見ながら、意識の活動している状態。3.熟眠状態、すなわち夢も見ず渾然一体 となった状態。4.不可侵にして万象を消して融合した状態。と説明されている。過去 、現在、未来を超えた何かの存在まで考えるのだから、起きているでもなく、夢を見 ているでもなく、熟睡無意識でもない、第4の状態があると考えることも可能なのか も知れない。1から3の状態にはそれぞれ順に母音、ア、ウ、ムが当てられている。 第4の状態はあるのか無いのか、状態と云えるのか否かも判らない状態だから当てら れる音は無い。しかし自我の究極状態は、やはりこの第4の状態とみなされている様 子だから、ここに達すること、すなわち不可侵にして、万象を消融し、安詳であり、 自我によって自我に入ること、をもって幸福と見て良いのだろう。

 仏教の経典、いわゆるお経は俗に8千巻といわれる程多くて、そのどれもが釈迦の 教えの真髄を伝えているのだろうから、幸福についての教えを探し出すことも容易で はない。仏教における人間の究極目的は、悟り、解脱、涅槃(ニルヴァーナ)などと されているから、これらに如何に到達するかが幸福状態を得る方法ということになる 。涅槃会というのは釈迦の入滅日の会のことだから、涅槃すなわち死ぬことによって 人間は確実に幸福になれると仏教では考えているらしい。仏教徒でなくても感覚的に これは良く判る。悟り、解脱などの言葉は、何かにこだわる心を去るという意味に使 われるから、現世的な欲や願望が幸福の逆であると説いている事も理解できる。しか しもう一歩進めて欲望や願望や喜びや悩みを捨てるとか忘れるとかでなく、問題にし ない境地に達することが幸福(悟り)だと説かれているようだ。法句譬喩経にある、 「解一法句、行可得道(法句一つを解せば、これを行いて道を得べし)」とあるよう に、どんな人間でも大切な一言のみを守れば悟りを開くことが出来るという教えや、 般若心経にある、“ガテー、ガテー、ハラガテー、ハラソウガテー、ボデイーソワカ ”のように彼岸(あちらの岸)へ行くということは、そのようなことを教えているの ではなかろうか。

 中国において発展した天台宗の摩訶止観も行(座禅)によって三昧(さんまい)の 境地に達することを説いているが、どんな状況でも最高に幸せな状態に入ることが、 三昧なのではないか。ちなみにぜいたく三昧が幸せではないのに、皆がこれにあこが れるのは、人間はやはり煩悩の生き物で、不幸への道は広いということなのだろうか 。しかし悪人であれ、善人であれ、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経と唱えれば往生で き、かなり悪い方に進んでからでも何処からでもカムバック出来る仏教や、懺悔によ って罪の清算OKのキリスト教など、ポピュラーな宗教の特徴も一般人が幸福になる ためには重要なようである。

 インドの古い説話集である有名なヂャータカやパンチャタントラを読むと、人の運 命や幸福についての昔の人の感覚が判る。その中にはギリシャや中国の哲学者達の考 え方と似ているものが多い。たとえばパンチャタントラにある「言葉の値段」、とい う話は、

「人はその有すべきものを有す。神と雖も之を如何ともする能わず。かるが故にわれ 驚かず、また悲しまず。われ等のものは他人のものとなるを得ざれば」

という、このひとつの詩だけが書かれてある本を高価で買う男の事が書かれている。 この詩は読み返す度に印象深いものだが、18世紀の百科全書派のデイドロの「運命 論者ジャックとその親分」という小説と同様、運命と人間の努力との関係を面白おか しく扱っている点での一致が見られ、幸福への関心の持ち方が時代や場所に関係無い 人間の本性であることが判る。

 日本で一般的に知られている中近東の書物といえばアラビアン・ナイト(8世紀) とルバイヤート(11世紀)ぐらいのものかも知れない。ペルシャの数学者、哲学者 で“真理の証”と呼ばれたという人物であるオマール・ハイヤム(1040-1110)が書 いた「ルバイヤート(4行詩)」は、酒と美しい女性こそこの世の目的と歌っている 。しかし、ルバイヤートの行間には、イスラム教の世界にありながら、唯物的に世界 を観察していることが読み取れる、とされている。

“もともと無理やり連れ出された世界なんだ、生きて悩みのほか得るところが      何かあったか?”

という詩から察すると、ずいぶん幸福に一生過ごしたことが推察される。(35-39)

2.2.10  新しく書かれた幸福論

 古代から中世にかけての幸福論をおよそレビューしたので近世から現代にわたって 書かれた幸福論について次に調べて見る。古代にはインド、中国、ギリシャにおいて 人間とは何かとか、人間の究極目的であるとか、について前述の通り深く考える人が いて、書物が沢山書かれたが、中世から近世にかけては、そのような自由な発想にお ける幸福論は出ていないように見える。ひとつの理由はこの長い期間、世界のいずれ の場所においても完成された宗教が人間社会の活動に大きく入り込んで、人間の精神 活動を規制した事であろう。

 幸福な社会を語ろうとすると必ずユートピアという言葉が用いられる。トーマス・ モア(1477-1535)の描いたユートピアは、読んで見るとあまり居心地の良い世界で は無さそうである。端的に云えば前述の性善説を前提にした社会と見なせる。モアは 厳格なカトリックの信者だったはず(そのため大逆罪で死刑になった)なので、ユー トピアを本当の理想社会として描こうとしたのではないと思われるが、そこでは正し い快楽の量をもって幸福を測ることになっていたり、あらゆる贅沢は、人々が自らそ れを軽蔑する雰囲気である、などのことが詳細に描かれている。モアの友人のエラス ムス(1469-1586)の「痴愚神礼賛」も面白おかしく、驚くべき古典の知識を駆使し ながら、見せかけの幸福を皮肉っているが、これらの社会風刺の書も本当の幸福を探 ろうという試みではなさそうである。

 19世紀後半になって幸福論が数多く出版され始めて再び人間の究極の目的として の幸福が考えられるようになってきた。これらについては表にまとめて示した。幸福 論へのアプローチの仕方には、生活の智恵としての幸福論、人生経験から得た幸福で あるための教訓や反省、宗教的信仰から示す幸福などがある。又、幸福を専門に研究 する学者として、アンケート調査に基づいてどんな人が、どんな時に幸せを感ずるか を調べるという幸福論への取り組みもある。この調査を多数の双子に対して行い、人 生を幸福と感ずる度合いは、人の生れ持った性質によってほぼ決まっていると結論し た報告(アメリカ心理学会)もある。しかし、世界的、歴史的に見た幸福論の総括は 意外に見当たらない。今まで調べた範囲では、山田孝雄の世界の幸福論(1979)が唯 一これを試みている。内容も充実していて面白く、大いに参考にさせて頂いた。(40 -44)

 これらの「幸福論」を参考にして、幸福感の分類について次節で論じたい。

3.幸福感の分類

3.1  人間の本能と幸福感

 室町時代の禅僧一休(1394-1481)は、幸せとは何かと問われて、

“祖父母(じじばば)死に、父母(ちちはは)死に、子死ぬ”

と答えたと伝えられる。雑誌などで幸福特集が組まれるときには、“あなたにとって 幸福とは何ですか?”という質問がなされる。それには、おいしいものを食べる、自 由な時間、スポーツ、友人といる、お金がもうかる、など多様な答えが返ってくる。 これらの答えの多くは、第1章で考えた生物としての人間の、種の保存の手段の3つ の本能、 1. 生む、2. 食べる、3. 危険を避ける、のいづれかに付随した快を満た す状態、それにそった行動として納得できる。一休の禅問答も、巧妙な頓智によって 、1番目の本能についての、すなわち子孫を存続させる“快”のことを表現したもの と云える。しかし、たとえば“予定通りで無い人生”などという答えは、どの本能に 属する快か説明し難い。前章でレビューした古代からの様々な幸福論も単純な“快” から、説明のきわめて難しい幸福論にまで広く分布している。

 幸福論が難しく感ぜられるひとつの理由は、これらを分析して、系統的に、段階的 に分類されることが今までなされていないためである。すなわち、幸福感の発生する 理由を単純な“快”のみ、あるいは、それらの単純な組み合わせにより説明したり、 快と本能との関係を考えなかったり、快を無視したりして説明しようとしてきたため であろう。

 以下に、単純な“快”が、“考える”という人間特有の機能により複雑化して出来 上がった、人間特有の幸福感を、4つのステージに分けて示すことを試みる。

3.2  幸福感の4つのステージ

 第1ステージ

 このステージでは、本能に基づく分離された“快”が満たされる状態を幸福と感ず る。すなわち、異性との交際、食を楽しむ、戦いに勝つ、スポーツを楽しむ、などに よるものでる。

 これらを十分にエンジョイ出来ることが幸福である、という考えは誰にでも理解で きると思う。このステージの幸福は、それらの快を得ることを幸せと感ずるのである から、より多く得ればそれだけ幸福感は増す。快が他の人々より多いことも幸福の中 に入る。したがって豊かさ、満足、余裕、が幸福の代名詞として使われる。富の幸福 もこの中に入る。前述のクロイソス王が自分の幸福を世界一と考えたステージ。

 第2ステージ

 このステージでは、先に述べた“考える”という能力によるフィードバックが作用 した結果が現われる。名誉も、富もそれらを持って嬉しいという気持ち、すなわち“ 快”を感じると、この“快”の持続を願う気持ちが“考える”結果として生ずる。す なわち満足、余裕の存続を幸福と考えるステージである。  クロイソスがソロンに“王こそ世界一の幸福者です”と云って欲しいと願った時点 で、すでにクロイソスは自分の幸福に、心の隅で不安を持っていたことが判る。自分 が完全な幸福状態に無いからこそ、他人が羨んでいることを確かめたくなる訳である 。このステージを端的に表わすのはソロンの云った、“死ぬまでは人の幸福を云うこ とは出来ない”、という言葉である。

 第3ステージ

 このステージでは、“考え”によるフィードバックが更に強くなった結果、減ずる ことのない富や、失われることのない名声を保つことが出来たらそれが果たして幸せ か、というところまで幸福を疑う気持ちが進む。そして幸福を知るためには苦しみも 、悲しみも知らなければならない、という考えに至る。

 アリストテレスは前述のように、この疑問に近づいているが、“徳が高い人はどん な状況でも不幸にならない”とまで述べて、苦しみが幸せに必要だとまでは述べてい ない。近代、現代の幸福論の中にも、このステージの考察に至っているものはいくつ か見られる。ショーペンハウエルは、幸せの大敵は苦痛と退屈だと云っているが、満 足は退屈に近いものと見なせば、第3ステージに近い幸福論を考えていたことになる 。ヒルテイは、至福はキリストを信ずる心によってのみ得られる、という信仰絶対視 をしながらも、実際的な話として、真の苦しみを知った人でないと幸福の意味を知る ことは出来ない、と述べている。そして、“いわゆる不断の幸福を持つ人は、どこか ちっぽけな感じがつきまとい、人相にまで現われてくる”とまで書いている。原文を 読んでいないので、正確にどこまで表現されているのか判らないが、これは第3ステ ージの考え方そのものである。

 このステージまで来ると満足、豊かさ、余裕、の持続は真の幸福を与えない、とい う気持ちが現われてくる。しかし、苦しみや悲しみ、恐れは、それ等を克服して満足 、安心、豊かさ、などを達成した時の喜びを増す、という作用の故に大切なものだと 考えるのがこのステージである。

 第4ステージ

 このステージまで来ると、苦しみや悲しみが、もはや満足、豊かさ、を引き立たせ るためにそれを知ることが必要というのではなく、本当の悲しみの中にこそ本当の幸 福がある、という考えにまで進む。

 幸せとは難破船が波にもまれて沈みかけているのを安全な岸から見てることだ、と いうどちらかと云えばケシカラン“幸福論”が有名だが、第4ステージの感覚で云え ば、幸福なのは難破船に乗って必死になって船をたて直そうとしている人のことにな る。聖書の山上の説教には大変明確に、この第4ステージの幸福こそ幸福だと書かれ ている。この説教は2.2.5節で書いたように、貧しい時、飢えている時、悲しんでい る時、人に憎まれている時、その時が幸福なのである、と解釈しないと第4ステージ の幸福論とはならない。耐え忍べばそのうちに良い時も又来ますよ、という慰めの言 葉と考えたのではまだ第3ステージにしか至っていない。

 親鸞の悪人正機説を幸福に置き換えて見ると、“富者なおもて幸福なり、いわんや 貧者おや、喜ぶ者なおもて幸福なり、いわんや悲しむ者おや・・・・・”となる。つ まり貧者から富者になった時が幸福でなく、貧そのものが幸せでないとこのステージ ではない。

 前述の論衡にある王充の言葉、“清らかでさえ無ければ塵をつけられない、・・・ ”も第4ステージの雰囲気をもっている。

 しかし、いずれの例も、全く純粋の第4ステージというには、まだ第3ステージの 色合いを含んでいたり、第3ステージと誤解される表現を取っている。それ程第4ス テージは常識はずれの思考であって、“考える”という人間の本能の働きの強烈さに 驚く。このステージは、2.2.9で触れたウパニシャッドにある自我(アートマン)の 第4状態に何やら近いような気がする。ウパニシャッドはあまりに抽象的すぎて理解 出来ないので、幸福の第4ステージが社会生活上どんな現実的例にあるかを考えて見る。

 マークトウエンの自伝に、自分の娘の死を悲しむ場面が描かれている。誰にも、ど んな事によっても慰められない悲しみが、感情に溺れず書かれている。これを直に幸 せと云うことは胸が痛んでとても出来ないが、この宇宙に生きる人間とはこのような 生き物なのかという深い感動を我々に与えるものである。感動は、悲しむ本人を超え て、万人に人間であることの美しさを感じさせてくれるものであり、その源となる運 命を担わされた本人も、それをもって幸せと思えることになりはしないだろうか。( 44, 45)

3.3  4階建ての奇妙な家

 前節で幸福感の4つのステージについて述べたが、これらのステージが1から4に 順次高級になるとか、4に近ずくことが望ましいとか云っているのではない。人間の 幸福の感じ方を、このように分類すると、究極の目的である幸福に向かっての社会活 動を考える上で便利ではないかと考えただけである。

 第1ステージの幸福は人間以外の動物にも共通である。第2以降のステージは人間 のみにある幸福であり“考える”という機能が発揮された結果生ずる幸福感だが、各 々のステージは、それまでのステージが無いと成立しないことに注意すべきであろう 。これは4階建ての家のようなもので、家は1階だけでも家として存在出来るけれど も、たとえば4階だけの家というものは存在し得ないのと同じことである。もっとも 、超越的な概念の世界なら“4階だけの家”というものもあるのかも知れないが、そ れはウパニシャッドや禅問答の領域の話題である。2階より上の階は考えることによ る、幸福感の変化により出現したわけだが、“変化”ということは時間経過の結果起 こることである。すなわち1階は時間に関係無く、その他の階は幸福感の時間的発展 により生じたとも見なせる。

 人間は幸福感に関して、こんな奇妙な4階建てに暮らしているけれども、ほとんど の人は気楽な1階で生活しているようである。1階は居心地が良いと云っても、そこ しか知らないというのでは、人間として生れた甲斐がない、一生に一度は4階をのぞ いて見るか、せめて3階まで上がって見たいものである。

 フィードバックが繰り返されることにより、単純な快から複雑な幸福感が形成され る事は「繰り返しによる物事の大きな変化」の1例である。次章では、このような変 化の起こる原理を考察し、この原理が、人間社会の動きの根本を支配する、お金(経 済)、心(哲学)、身体(生物学)に深く関与する様子を調べて見る。

4.世の動きを支配する原理

4.1  繰り返しによる物事の大きな変化

 最近とり挙げられる“複雑さ”や、かなり以前から広まった“カオス”、“フラク タル”などの問題の重要さが認識され始めた理由は、これらはすべて、「繰り返しが 物事の大きな変化、想像もつかない変革を生ずる」という原理を表わしているためで ある。この原理は“幸福”について考えるために我々をとりまく社会や自然について 改めて見直したときに、実に至る所に現われることが判る。

 一回のフィードバックにより生ずる幸福感の変化が、次のフィードバックの際に更 に増幅されるということの繰り返しはその一例である。物理的な例をとると、ガマの 油売の口上がこれにあてはまる。一枚の紙を半分に切る操作を続けると、1枚が2枚 、2枚が4枚、4枚が8枚・・・と増える。すなわち、繰り返しの数が1、2、3、 ・・・と直線的に増加するのに対して結果が2、4、8、・・・と指数的、すなわち 非線形に増加する。そして、たったの20回切るだけで紙片の数は百万枚になる。想 像もつかないという事は、我々の頭が物事の比較的短い時間内での観察、経験を基礎 にした線形な予測をするように出来ているためである。幸福の追求においても直線的 な思考では人間の心の中の微妙な幸福に関する感覚を満たすことにならないようである。

 以下に、我々をとり巻く社会、自然環境の中から、人間の幸福を考えるためにもっ とも重要な要因である、経済(金)、哲学(心)、エネルギー、および生物としての 人間をとり挙げて、これらに関してこのネズミ算つまり倍々ゲームの原理が如何に作 用して重要な役割を果たしているかを考えて見る。

4.2  経済(性善説か性悪説か、ウエーバー・フェヒナーの法則)

 先ず、経済について考えてみよう。それはとりも直さず、西鶴の日本永代蔵に書い てある事で、「世の中に、借り銀の利息程、恐ろしき物は無し」ということに尽きる 。堺の水間寺で、1年に1倍というきまりで、1貫文を借りて帰った江戸の舟問屋が 13年目に8192貫文にして返した話は、曽呂利新左衛門が、何かのご褒美に畳一 枚に一粒の米を、次の畳に2粒、その次には4粒・・・と倍々して32畳敷の分の米 を下さいといって秀吉を参らせた話などと同様、経済の根本に倍々ゲームの原理があ ることを見抜いている。現今の経済活動を見ても、成長率5%になれば経済が健全に なった、などと云われるけれども、5%でも1%でも先の水間寺のような100%で も、複利法で行く限り倍々ゲームの要素は厳然として作用するわけで、その原理はい わゆるネズミ算と同じものである。限界を超えてこのゲームを続けることが不可能な ことは、法律でネズミ講が禁止されている事を見れば自明のことだ。

 どうして経済がこのようにネズミ算になるのかは、それが人間の性質に組み込まれ ているためであろうと推測せざるを得ない。その性質を端的に示すものに、ウエーバ ー・フェヒナーの法則という、実験により示された結果がある。それによると、たと えば光の明るさなどの、刺激の増減を人間が識別出来る最小変化量は一定ではなく、 その時受けている刺激の強さの何パーセントという、その率が一定であるらしい。こ の刺激をお金におき替えると、人間は常に一定量の収入の増加では喜ばず、その時の 収入の何割かの増加を欲することになる。つまり増えれば増える程もっと(その富に 応じた割合で)欲しくなることになって、複利法的経済の膨張の基礎を作ることになる。

 そんな無限の膨張が破綻を内包している事を人々は古くから感じていて、例えばお よそ2500年も昔の人であるソクラテスは市場の品物の多さに驚いて、「私にいら ない物がこんなにあるのか!」と云っているし、徒然草(217段)にも、人間の欲に は限界が無い(所願無量)一方、世界の物には限りがあるのは困った事だと書かれている。

 ところが、だからと云って人間の止むに止まれぬ欲求を制限することは社会の活力 を低下させる。つまり個人の能力が(欲望という駆動力によって)十分発揮されないと 社会の富はたちまち損なわれてしまう。人間は己の欲望に沿って行動する時に最大の 力を発揮するものであって、その発揮される力は自然に社会の為になる方向に向き、 国の富は増す。これはアダム・スミスの理論だが、過去200年以上もこの考えが有 効なことが実証されてきた。実証されてきた理由は20世紀の間は地球の容量にまだ 余裕があり、経済が膨張を続けることが可能だったからである。どんどん膨張するこ とが可能であれば経済のコントロールは容易だが、膨張の限界に至ると問題は難しく なる。

 アメリカの西部開拓に見ても、西海岸に至るまでどんどん新天地がある間は争いが 少なかったはずである。宇宙も今膨張を続けている事の結果として、我々がひと時安 らかに暮らせているのだそうである。こちらの方はあと数百億年膨張を続けることが 可能なので、とりあえずの問題とはならない。しかし我々の地球上の経済活動はそう は行かず、今後、21世紀の社会には、何か全く新しい経済のパラダイムが現われる 事が必要だ。その社会では人間が活力を失わず、しかも倍々ゲーム的経済膨張もない 方策がとられねばならない。方策と云っても沢山の規則や法律を作っても無駄で、ス ミスが示した自由放任による活力の増進や、ケインズが示した利率低下による再投資 と、その結果により生まれる職の増加と賃金上昇による富の再配分、などのように、 たった1つの基本的施策によりあまり手を加えずに、先述のように人間の活力が自然 に社会のために向く事を考える必要がある。

 スミスやケインズの立場である、人間の本性は自分本位のものだとすることは性悪 説の考え方である。そしてその性悪の活力を自然に利用することを考えた訳である。 もちろん、スミスもケインズもそして性悪説そのものを説いた荀子も、人間の本性が 己の欲に基づく行動に流れ易いので困ったものだ、とだけ云っているのではない。む しろ個人としては、環境や教育によって無制限な欲望を抑えることは可能であり、性 善の方に導き得る、と述べているわけで、人間の本性が善である面も十二分に理解し ていると考えられる。けれども、社会の経済活動を動かして行くのはやはり、人間の 性善的な側面ではなく、性悪的な側面にならざるを得ないことを指摘しているのである。

 性悪的側面によって経済が動くときには必然的に倍増の原理が働くようになる。こ の考え方に沿って経済のネズミ算的膨張の制御を考えるひとつの方向として税制の徹 底的研究が必要な気がする。これはケインズも述べていることだが、税金により金銭 の倍々ゲームの結果獲得できる富の最高値を低くすることにより、より多くの人々が 金銭ゲームに参加して成功するチャンスを与えることが可能となるためである。いず れにせよ、幸福の一大要素である社会の安定と、個人の経済的成功の可能性を確保す るためには経済の根本法則である倍々ゲームの恐ろしさをはっきりと認識して、それ を如何なる手段でマネージするかに全力が注がれるべきで、原理的に破綻することが 明白であることを知りながら、常に“景気”が良いことを願う愚かさから何とか脱却 せねばならない。(46-53)

4.3  哲学(運命論か自由意思か)

 さて、次に心の問題つまり哲学について、倍々ゲームの原理を見てみよう。幸福を 考えることに関連する哲学ということで、難しい話は一切抜きにして、ここでは哲学 者が何を考え悩んだか、その根幹をたったひとつだけを取り上げる。それは、運命は 決まったものかそうでないか、という事である。運命論とか決定論という立場は、世 の中のすべての出来事は末の末までもう決まっていて、人間がどのようにあがいても 変更は不可能である、とするものである。その逆の立場は、もちろん人間の意思によ って未来は開拓も出来、またダメにもなり得る、つまり人間の自由意思は何物にも束 縛されないものだという事である。アリストテレス、エピクロス、キケロ、アクグス チヌス、ボエチウス、墨子、王充、ハイヤーム等みんながこの点を悩み抜いたことは 2章で述べた。

 この2つの考えは、どちらも人間が生きて行く上で具合の悪い要素を含んでいると すぐに判る。前者でゆくと、人間が善行を積もうが非行に走ろうが、そんな事は前か ら決まっている事でどうしようも無いし、未来の事柄を変える事にもならない。後者 でゆくと、世の中の事は何事であれ原因と結果というものがあるのに、その因果関係 はどこで途切れる事になるのか、原因も無いのに結果がポコッと生ずる事を認め始め たら何を信じて良いのやら大変困ってしまう。

 18世紀にニュートンとライプニッツが微分方程式を考案して、天体の運行も大砲 の弾道も計算で正確に予測出来る事が発見されると、決定論は勢いを得て、予定調和 説などという神の決めた未来に向かって人間、社会が進むという考えまで出た。とこ ろが、1960年代にカオスの理論が現われて、微分方程式といえども必ずしも決定 論的に答えを出すものでは無いらしいということが唱えられ始めた。特に非線形とい われる数式では答えがカオス、すなわち混沌となって予測不可能となる場合が多い事 が明らかとなった。その最も簡単な例として倍々ゲームの場合がとり上げられている 。つまり繰り返しの数が1,2,3,・・・と増えたとき、答えが2倍、4倍、8倍 と増える事は、非線形現象そのものであり、カオスを生む性質を内包しているという わけである。

 これは、何事であれ始め(初期値)のほんの小さな変化が、繰り返しのたびに2倍 、4倍、8倍、・・・と増大すると、先述の利息の場合同様、直ぐに収拾がつかなく なる事を云っている。このようないわゆる初期値敏感性と呼ばれる事象は、人間が古 くから感じてきたことで、ほんの小さな出来事が人間の運命を大きく変える事は、多 くの小説の題材にされてきている。世の中の多くの事象は、繰り返しにより起こる( 例えば1日1日の繰り返し、毎年、毎年の繰り返しなど)ので、繰り返しによる事象 の変化の法則に倍々ゲームの要素があるとき(例えば経済の場合のように)今いる状態 からは将来の予測が本質的に不可能ですよ、という事がカオスの理論によって云い出 され始めているわけである。どちらが正しいのか、今、決着がついているわけでは無 いけれども、世の中の事柄の因果関係が成立する範囲、などという事も時間の流れす なわち、繰り返しの回数の中で、捕えられるべきであることは間違い無い。(54)

4.4  とり返しのつかない変化(エントロピー増大は状態の非線形的増加による)

 カオスの発生とは情報の完全消失ということである。これはエネルギー学(熱力学) の本質とも直接関係している。例えばN個の気体分子の入った箱の大きさが2倍にな るとその分子が箱の中のどこにあるかという情報は2のN乗分の1に減る。すなわち 倍増計算そのもので表わすことが出来る。このような情報の減少すなわちカオスへの 接近は、エントロピー変化という量で定量的に示すことが出来るが、エントロピーが 増えるという事は、一旦起こった変化は元に戻れないという事だと教科書に書かれて いる。つまり我々の社会が、どんどんと資源も環境も使い果たし不可逆的に一方向に 進んでゆくのは、この倍増の原理のためだということになる。

 歴史は繰り返すなどと云われるけれども、前述のクロイソス王の逸話におけるソロ ンの説教の通り、同じ事は絶対に2度と起こらない、一旦起こったことは絶対に元に 戻れない。エネルギー学(熱力学)はこれを証明する学問なのである。何百億年も先 には全宇宙の温度が等しくなって、もうそれ以上何の変化も起こらない状態となる、 いわゆる、“熱的死”に至るかも知れないのはこの原理による。

 しかし、そこまで考えるのではなくて、人間の幸福を考えるための数千年という時 間の中においても、人間の生存が不可能となる程度の不可逆的変化、すなわち、とり 返しのつかない破局的環境変化も案外あっさりと起こるかも知れない。破局に至る時 間を伸ばす方策は、ひとつには、今地球上にあるエネルギー資源ををケチケチと使う ことだけれども、人間が性悪的本性に動かされ、ウエーバー・フェヒナーの法則によ って行動する性質であれば、所願無量となって、それに期待する事は難しい。となる と、地球外の、長続きのする(何億年も?)資源である太陽に頼る外は無く、その利 用技術の開発に期待したいが、早期にはこれも難しそうだ。そうなると、それ程エネ ルギーを使わずとも幸せでいられる社会を考えてゆくことも必要である。もちろんそ れ等の方策、具体的実行は人間の良心に待つのではなく、個人の止むに止まれぬ欲望 を逆に利用するやり方でなければならない。性悪説をとる立場から端的に云うならば 、太陽エネルギー利用が“儲かる”ように、例えば税制によって、社会がガイドされ ねばならない。

4.5  生物としての人間(誰が誰の先祖か)

 次に倍増計算の現われる身近かな事柄として、進化論、すなわち生物としての人間 について考えて見る。ダーウインは1859年に出版した「種の起源」で、人間を含 むすべての動物、植物は、始めはほんのわずか、あるいは1個のものから発生したと 結論しており、今もこれは正しいとされている。ところで現在の地球上の生物に至る までに、それらの生物の基本である細胞は何度の分裂を繰り返しただろうか。生物の 歴史は35億年と云われる。細胞分裂はまさに1個が2個に、2個から4個になる現 象で、倍々計算そのものである。35億年の倍増ゲームを考えると、とんでもない創 造物である人間がたった1個の原始生命から進化して生じたことも納得できるような 気がしてくる。

 ここで驚くべき事は、ネズミ算、すなわち倍々ゲームの原理が、物事の混沌、情報 の消失を生ずるばかりでなく、たった1個の原始生命から、人間を含む驚くべき生物 系、驚くべき秩序を持った複雑きわまりない構造をも創り出したことである。このよ うに同じ原理が一方ではカオスを生じ、他方で秩序を生むという事は不可逆過程の熱 力学の専門家のプリゴジンが指摘しているところである。

 そのように大きな変化の生まれる何億年という繰り返しを考えなくとも、我々のも っと身近かな先祖の事を考えて見ると、両親が2人、祖父母が4人、曽祖父母が8人 、・・・と数えて見ると1000年昔、およそ40代前の先祖の数は、誰しも例外な く確実に、2の40乗すなわち1兆人近くいる事になる。もちろん1000年昔、源 氏物語が書かれた頃の日本の人口は高々数百万人のオーダーであろうから、1兆人の 先祖の数え方は、何重にも重ね合わされて、この数百万人に押し込められていること になる。云い変えれば我々は皆、たった1000年遡るだけで、誰が誰の先祖なのか 百万分の一(ppm)のオーダーでしか識別できないことになっている。もちろんこれ を更に1000年遡ると、つまり2000年昔の事を考えると、1兆×1兆すなわち 10の24乗人の先祖があることになり、いよいよ誰が誰の先祖なのか問題にもなら ない事になる。

 更によく考えて見ると、これは先祖のことだけでなく、子孫にも当てはまることに 気付かねばならないだろう。1000年後の子孫は私の子供もあなたの子供も区別出 来ませんという事である。人間が、憎しみ合ったり愛し合ったりするのは、それこそ 人生のドラマで人生の目的ではあるけれども、あまり目先の事に執着する事、すなわ ち線形的視野で未来を予測しないようにする事も幸せの大きなファクターである事が 、このネズミ算の考察から明らかではなかろうか。(55, 56)

5.幸福論と社会工学

5.1  我々は何処へ行こうとするのか

 問題はすでに明らかになってきた。求めるべき幸福が奇妙な4階建て構造らしいと いうことや、にもかかわらず、社会の動きはそれが1階建てであるという旧来の考え のまま、人間の性悪面が強調されるに任せて、倍増計算の原理によって止めようの無 い勢いで破局に向かっていることなどである。持続可能な発展という言葉が聞かれる が、発展という言葉の意味が、今の経済原理の下での“景気”の良いことすなわち経 済成長率の維持であるならば、それは不可能である。それは可能であるけれども高々 数10年間可能なだけである。しかし恐ろしいことに、人間の寿命、すなわち世の中 の変化を直接観察する期間が同じく数10年であれば、それは無限の長さと同じ意味 を、個人に対しては、持つことになる。このような、今の状態がいつまでも続く、と いう気持ちは人間の考え方(本性)の線形性によっている。しかし自然現象(社会活 動も含めて)は元来非線形であることが前章で、倍増計算の原理として明らかされた。

 膨張がいつまでも続くことの出来ない事は、歴史的に見ても何度も証明されている 。中国の歴史について知られる“一治一乱”とは宮崎市定の指摘の通り、人口と経済 の膨張が、戦乱により半減する事による新たな膨張の可能性の回復を意味してきた。 その新たな膨張期には比較的平和な社会が実現し、文化も栄えた。しかしながら、前 述した通り、歴史は絶対に繰り返さない。一治一乱の繰り返しが続いても、その度に その内容は拡大してきている。中国の例で考えるならば、共産主義革命、文化大革命 と大乱が続いた後である今、新たな膨張をする気運は十分熟成されたわけで、今後の 数10年は著しく活性化する可能性を有している。しかし、その後どうする、という 事を今、誰か考えている人がいるだろうか?

 地球の許容量が人間の社会活動の規模より、はるかに大きかった20世紀までの間 は、人類が、世界のここかしこで“一治一乱”を行って楽しさと、悲惨さとを繰り返 しながら生きてくることが出来た。エネルギー・環境問題が地球の許容量をおびやか すことになった今、次の一乱が人類の生存に対しての“最後の一撃”でないと誰が云 えるだろうか。

 そのような“先”のことを心配するより明日の株価を考える方が正常な人間のする ことである、あるいは、結局は神様がおられるので悪いようにはならないだろう、等 々が我々の今取っている態度だと思う。それではいけない、と思う時には、膨張はし ないけれども景気も良いという社会を考え出さなければならない。この難問は前に触 れたウパニシャッドの第4の自我を実現するのと同じくらい難しそうである。

 しかし、我々は何処へ行こうとしているのか、を考えるとすれば、これを考える以 外にはない。古代から人々もこのような危惧を感じてきてはいる。しかし、常に云わ れることは、徳の高い生活や高度の精神活動を皆がエンジョイする社会の実現などの 発想であり、モアのユートピアやガボールの成熟社会などがその典型であろう。

 現実的な解決法が見つかるとすれば、それは人間の本性を改善する、これをよりよ く教化するという、荀子やマルクスが考えた方法では無いであろう。今我々が持つ本 性をそのまま受け入れて、先述の一見矛盾した条件を満たす社会を作らなければなら ない。(57, 58)

5.2  性悪説の下での理想の実現

 性悪説が正しいと結論するのではもちろん無いが、社会を動かす力になるのはやは り前述の通り人間の性悪の面である。すなわち、幸福の家の1階の住人はケシカラン から皆2階以上に移動しなさい、と云っても無駄なのであって、1階あっての2階な のだから、1階の住人の心理をよく研究して、1階の住人(我々一般人のこと)の気 持をなだめる手段を施して、その後ゆっくりと2階以上の幸福感を味わえるようにし なければならない。したがって具体的には自己の欲望を満たすための行動を自由に行 うことの出来る社会で、その行動の集まりが、結果として倍増計算の原理につながら ないような社会は何かを考えることが必要となる。

 前述の“一治一乱”はある意味でこれを実現しているといえる。つまり、所願無量 という程の欲で築き上げた富も、社会的な組織も、全部“乱”によって零に戻せば、 又活気ある生活を皆が楽しむことが出来る。第2次大戦後の日本はまさに戦後の復興 ということで、かなり長い期間この状態を楽しんできたことになる。しかし“乱”の ために何百万人の人が殺されたことも厳しい事実である。乱を起こさずに、“一治一 乱”の効果を実現するためにはどこかで、富とか組織とかの膨張を制御することが必 要なとなる。

 しかし制御と云っても、規制をたくさん作ってあれもやり、これもやるという事で は決して上手くゆかない。性悪面の持つエネルギーを上手く利用するポイントを押さ えることを考えねばならない。譬喩経にいう“雖誦千章、 不如一要”という法句に 学ぶべきである。つまり千のお経をよんでも肝心な要点ひとつにおよばない。老子の 、“及其有事、 不足以取天下”も同じ意味である。つまりいろいろと用事が忙しい 間は天下を取る(正解を得る)には不足だという事である。肝心な1点を押さえない と忙しいばかりで物事は決して真の解決に至らない。

 社会の動きを制御する最も有効なパラメーター、道具はお金であるからお金の流れ を制御するのが最も有効であろう。具体的な方法、肝心かなめの1点はどこにあるか を考えて見よう。

5.3  デボラ数と税金

 お金の動きを制御する重要なパラメーターには利率と税金とがある。ケインズは前 述した通り、アダム・スミスの自由放任経済の弱点である貧富の差の増大を、利率の コントロールにより解決できることを示した。このように、多くの法律や規制の代わ りに、利率のコントロールのみという簡単な方法によるからこそ、この方法は有効な のであった。

 税金の目的は国家の収入を確保することが第1のように思われているが、国家の収 入は国が正しく機能しているなら自然に十分に入ってくるはずである。税金の目的は 前述のケインズの考えの通り第1義的に経済活動のコントロールに有る、とすべきで ある。税金で難しいのは、いつ、誰からどれだけ税をとるかであろう。

 いつ税をとるか、についてを考える目安を与えてくれるパラメーターとして“デボ ラ数”を考えることが出来る、デボラ数はある現象がある瞬間に発生した時、その後 時間が経ってその起こった現象が周囲に及ぼす影響のほぼ無くなるまでの時間、すな わち緩和時間を、その現象を見守っている時間、つまり観測時間で割った数である。

 人の噂も75日という諺があるが、75日もすれば世間の人がほぼ忘れてくれると いう時には、この75日が緩和時間である。これに対して観測時間を10日とすれば 、デボラ数は7.5となるし、75日観測するならデボラ数は1.0、1年たてばデボ ラ数は75/365だから約0.2ということになる。つまりデボラ数が1ぐらいに なるとやっとある事件の“ほとぼり”が冷めかけたという事を示し、1.0より小さ い程その事件は忘れ去られているという目安になる。

 税金に対してこのデボラ数の考え方が適用できそうだと思えるのは、ここでいう“ 事件”を、収入が上がった、企業であれば好決算ということに置き換えて見ようとい う考えである。利己心の強い性悪的人間の本領がとくに発揮されるのは、儲かった!

 というその感動の強い時期である。せっかくの企業努力で必死になって好決算にこ ぎつけた時、その収入をごっそり税金に吸い上げられては、何のために頑張ったのか 判らない。次からは頑張る気がしなくなる。これが性悪者の本性だろう。しかし、人 間の性は悪だと云ってもそれは、常に悪であることは無い。利己心にこり固まってい る人も別の面では驚く程気前の良いのが常であり、人間は性悪と性善とを併せ持って いる。利益を得た時は、この利益にこだわる気持ち、執心が最も強い時である。しか しその執心の強さも時間がたてば徐々に弱ってくる。つまり緩和するものである。こ れが十分緩和した項を見計って税金を取る。ということが、人心を害なわずに膨張を 押さえるコツではないだろうか。つまり、利己心の発揮による成功感に関してのデボ ラ数を1.0以下にする事である。

 長い目で見ると、お金に限らず、我々が今こだわっている日常の諸々のことは、そ れ程頑張って執心する必要の無いことに気付く。この長い目で見るということを数字 で示すのがデボラ数である。長い目というのは時間のことである。この時間の長さは 、何を見るかによって1日でも長いと感じるし、千年でも長くない物事もあろう。時 間が、その物事に対して“長い目”になる時がデボラ数が1.0より小さくなる時で ある。

 我々が何処へ行こうとしているかを求める時に生ずる最大の難問、すなわち、活力 あって無限の膨張もない世界の実現、パイの大きさを増さずに皆が分配にあずかり、 しかも分取り合戦の妙味をも楽しめる世界を実現するコツは、事ごとに固有のデボラ 数を正しく見計らって、性悪の故に生ずる執心をうまくほどくことにある。(59)

総括.歴史は決して繰り返さない

 幸福についての小論をまとめて見て気付くことは、カバーする分野が法律、経済、 哲学、文学、理学、工学、生物学、宗教などおよそ人間の社会活動のすべてに渉って いることである。しかもその各々の一部ということではなく、それらの分野のいずれ においてもその根幹をなす最も重要な点が幸福論に関与していることを、この小論を 読めば理解頂けると思う。不備、間違いが多く、結論も性急に過ぎる点は判っている けれども、幸福論を如何に考えるべきか、という構想に間違いは無いと確信する。

 最後に、エネルギー学(熱力学)の法則は、すべての物事は元に戻らない、歴史は 決して繰り返さないことを教えている。人間の幸福は、時間が過ぎてゆく中で、1度 しか起こらない物事を経験してゆく中で感じてゆくものである。幸福は感動の中にあ り、満足の中にないのはこのためである。

参考文献

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(51)「宇宙の膨張」:S. Hawking, “A Brief History of Time”, Bantam Books, ( 1988), p.35.
(52)「The Wealth of Nations」:Adam Smith, Modern Library Edition, (1937), Random House, p.423.
(53)「The General Theory of Employment, Interest and Money」:John Maynard Keynes, Cambridge University Press, for Royal Economic Society, (1973), Reprinted, (1991), pp.372-374.
(54)「 形而上学敍説」:ライプニッツ、竹内良知訳、河出書房、 (1954), pp.280-281., 291.
(55)「The Origin of Species」: Charles Darwin, Random House, NY, (1993), p p.648-649.
(56) 「複雑性の探究」:G. ニコリス、I. プリゴジン、安孫子誠也、北原利夫訳、 みすず書房、(1995), 第4刷、pp.36-47.
(57) 「成熟社会」:デニス・ガボール、林雄二郎訳、講談社、(昭和48)
(58) 「中国史」:宮崎市定、岩波全書、(1995), pp.161-163.
(59)  デボラ数について:J. M. Stevels, J. Non-Cryst. Solids, Vol.6, (1971), p.316.

表 1 新しく書かれた幸福論 抄録